「笠岡市史V」によれば昭和17頃城見村には養蚕農家があった。
茂平にはおらなんだ。
大≠ゥ用之江にだいしょう、しょうたんじゃろう。
2000・6・25
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おばの話・談・2017.2.9
養蚕
茂平も城見もおぼえておらん(養蚕はなかった)。
小平井へ嫁に来た時。姑が「飼ようた」ゆうてようた。
(嫁に行った時には、既に養蚕はしてなかった)
「その頃はのう、上座にも寝られん。畳をあげて・・」
寺で寝ょうたん?じゃろうか。
あれをせんとお金になるもんがなかった
養蚕をせんと食べていかれんようた
茂平の山に桑畑が一本あった。(弟の)まさしが「実を食べれる」、いってまさしと食びょうた。
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養蚕・矢掛町
小田郡でも矢掛町の養蚕は特に盛んだった。
今でも、小田川の河原(三成地区)をみると当時が彷彿されるようだ。
以下「矢掛町史」より転記
最盛期は昭和10年前後と思われる。
このころは、矢掛町の8割近くの農家が養蚕をしていた。
特に三谷から川面、中川にかけての小田川の自然堤防上は桑畑に極めて適した土地であった。小田川の氾濫によって運ばれた肥沃で排水良好な砂が桑の育成に適し、また洪水時に冠水しても流失の恐れがなかった。
農家は座敷の畳をあげ、養蚕棚を設けて養蚕した。
桑の葉を一枚ずつ収穫し、蚕に与え、繭をつくる直前にまで成長した蚕を夜を徹してよりわけるなど極めて労働集約的な作業が行われた。忙しい仕事であったが、当時の農家にとっては安定した現金収入であった。
ナイロンの出現、戦争による輸出の途絶で激減し、大戦途中から戦後の食糧難で壊滅的な打撃を受けた。
政府は桑畑から普通畑への転換を命令し、桑の株はチェンブロックで引き抜かれ、食糧生産の畑地へと変わっていった。
昭和55年現在で、美川・三成・南山田など矢掛町内で37戸、老人の副収入程度に養蚕が残されている。
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桑と養蚕
岡山県史・民族1より転記
養蚕の変遷は3回あった。
天然育、温暖育、条桑育(じょうそういく)。
大正末期から飼育法は条桑育といって蚕に桑を枝のまま与えて飼育するようになり、幾段もの蚕棚で棚飼いした。
稚蚕は母屋の一室で密閉育として、壮蚕になって8畳のオクノマや離れ座敷に移す。養蚕業は明治時代から昭和16年頃まで、県内ほとんど全区域で行われ、中国山地の村々が盛んであった。
ただし、タバコは蚕に被害があるので葉タバコと養蚕はいっしょにできなかった。
最盛期は大正末から昭和初め頃まで、昭和10年頃までは比較的盛んであった。