養蚕業
養蚕業は戦前の日本の「外貨獲得」の代表産業「絹糸」の基で、家に蚕、畑に桑があった。
全盛期は昭和10年(1935)頃。
生糸相場の変動が大きく、安定価格の葉タバコへの変動や、
戦争に伴う食糧事情悪化により「食べる」栽培の奨励で衰退した。
『岡山県統計書』
養蚕戸数 繭数量(貫) 繭価格(円)
昭和3年 69 871 5522
昭和5年 80 1100 4268
昭和7年 74 661 1784
戸数に茂平はなし。(用之江と大≠フみ)
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金光町史より・養蚕
金光町の養蚕の歴史はまだはっきりつかめていない。
阿坂の西山友茂は「昭和2年頃私が始めた。父の代はやっていなかった」という。
桑の栽培には河川敷利用でなく、ほとんど傾斜畑利用である。ここでは養蚕は葉タバコに追われていった。
昭和12年頃が葉タバコと養蚕の転換期となっている。
蚕は春蚕と夏秋蚕がおもに行われ、人によれば晩蚕も行われていた。
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神島村史より・養蚕
幕末から明治になって養蚕が普及、綿畑は桑畑へとバトンタッチ、
生糸の輸出が増え、養蚕は盛んになり、春蚕、夏蚕、秋蚕と忙しく、
寝るところもないほど蚕棚をつくった。
これは大変な収入源にもなった。
まゆを10日置くと蛾になるので、早めに木灰(あく)叉は炭酸を入れて大きな釜で炊いて、3〜8個の繭の糸を合せて一本にする。
繭の中のさなぎは飼料にした。
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養蚕業(真備町史)
明治22年頃より当地方には発達した。しかし明治26.27年には繭価格低落にして衰え、明治37.38年頃より稚蚕(ちさん)の共同飼育を奨励してから、失敗者も減じ、明治末年頃より次第に盛んとなった。
繭種は白繭のみで、黄種は全く飼育せず、繭の売り出し先は専ら富山県である。
桑の種類は「魯桑」(ろそう)が最も多い。桑の仕立ては根刈り式。
春蚕は病気にかかり易く成績劣れりとある。
大正時代は右の如く僅かであったが次第に盛んとなり昭和4〜5年頃をもって最高潮となり農産物価格の約一割に達した。
その年頃より農業恐慌、次第に戦時統制、化学繊維の進出などによって衰退した。
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養蚕(美星町史)
明治の中頃、絹織物や生糸がアメリカ合衆国その他に輸出商品として伸びてきた。
明治政府は国策として、岡山県でも養蚕を保護奨励する行政措置を執るに至った。
明治21〜22年頃から火力を使用しての加温飼育が始まった。
明治38年稚蚕共同飼育奨励金下付規定が公布された。
当地桑園は根刈り仕立てで稚蚕(1.2齢)用と壮蚕(5.5齢)用に分けて、品種も20数種あった。
蚕種は町外から購入、飼育は春蚕・初秋蚕・晩秋蚕の年三回が普通。
適温は22〜25.6度、屋内で蚕箱による棚飼である。
「春蚕の稚蚕は家の6畳間を目張りし、蚊帳で二重に囲み、排気窓をつくり、木炭・薪・練炭等で加温し、硬軟適度の桑葉を一枚摘みとし、保蔵して、細切りして、多いときは一日10回以上給与し、発育するに従い毎日拡座、3齢以上は毎日一回の除沙(食い残しの葉と糞を取り除く)など、昼夜をわかたぬ激しい労働の連続である
稚蚕期は概ね女性の仕事であるが、壮蚕期になると大量の桑の取り入れ・運搬、重い蚕箱の出し入れ、給桑作業などで家族の全労働力を集中せねばならぬ。
やがて塾蚕(繭をつくりはじめ)になると一匹づつ別の箱に移す、この時は一家で足りず人夫を雇った。
この頃は田植えと麦刈りと、年間労働力のピークであった。」
仲買人による個人の庭先取引から、昭和10年頃には会社との特約取引をするようになった。
会社は郡是・片倉の大手から笠岡・矢掛・井原の地元業者も多かった。
しかし、この特約取引の頃から貿易は頭打ちとなり生産は減少しはじめた。