特殊接待婦 岡山市の場合
岡山県史より
10月12日に進駐軍先遣隊が来岡すると、宿舎である県庁分館(内山下国民学校)内に数人の連絡員と通訳を常駐させた。先遣隊からは自動車の提供、必要物資のあっせんが要求されたが、戦災による市内での物資調達は困難を極めた。
そのうえ予定より3日早く10月21日に本軍が進駐実施の連絡を受けた。
いわゆる特殊接待婦については東・西中島遊郭に90余室の専用応急施設を作り、10月25日に開業した。
また岡山劇場・三井物産岡山主張所・日赤岡山をダンスホールに改造、一般公募のダンサー100人にダンスの講習を行い、阪神方面から移入した100人とともにダンスホールに配置、10月25日開場した。
かつて日本軍が占領区域で示した暴虐行為の記憶が、いまだ経験したことのない外国軍の占領という事態に対する不安感を一層増幅させた。
進駐軍受け入りの心得の中にも「握手は求められた時だけに止めよ。毅然たる態度を保持せよ」等々、婦人に対する注意事項が多かった。
幸いにも進駐部隊と市民との間には、さほど大きなトラブルは起きなかったようである。
求む「日本の新女性」
「昭和史9占領下の日本」より
昭和20年、終戦直後にRAAがいち早く設立された。
要するに占領軍兵士に慰安婦を提供する機関である。
このRAAはアメリカ側の要請でなく、日本政府のきもいりでできたもの。
運営は東京都の料理飲食など接待業の団体が当たることになった。
そして「日本の新女性」を求むという広告を出して募集したところ多数の女性が応募し大森の小町園で店開きした。
彼女たちは「特別女子挺身隊員」と呼ばれ、占領軍兵士から一般の婦女子を守る防波堤になった。
ショートタイム100円、泊まりは300円だったが、兵士たちは手に手に100円札を握りしめ開店前から行列を作るありさまだった。
しかし巷にヤミの売春婦があふれ性病が蔓延したことから、米軍司令部は売春行為をするところに出入りすることを禁止し、昭和21年3月RAAはその機能を失った。
RAAの多くは街の女に転落したが、なじみの兵と専属となりオンリーと呼ばれる者もあった。
オンリーとはひとつの部屋か家をあたえられ、基地周辺には派手な原色の洗濯物が干された。
2015年07月22日 | 昭和20年