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松根油


つぼう郷土史研究会の本から転記する。


さつまいもの葉柄つみ。茹でて乾燥野菜として戦地へ送る。
藤の皮をむぎに町有林へ。金づちをたたき皮を供出する。これは学童服になる。
運動場は、走るコースを残してさつまいも・かぼちゃを植える。夜、盗難にあい、職員は交代で夜警をした。
稲刈り、麦刈りには、上級生は鎌をもって参加した。子供はめっきり勉強しなくなった。


昭和19年後半ごろから、航空機燃料が無いということで、肥え松の根を掘り出し松根油を造るということで、平屋建ての舎屋を建築した。
薄荷の油を搾る様な方法であった。松の根をこっぱにし、蒸し器で蒸して油を取り出していた。
また松の樹脂を取れということで、生松にゴムの樹液を取るように木に斜めに切り傷をつけ、缶を吊るして松ヤニを取っていた。


10月小学校の校庭で三八銃や短剣を焼却処分ということで、小学校の校庭で在郷軍人旗と共に焼却した。
その後、豪州兵がジープで神森神社の石段を平気で登っていったのには驚き入った。


この田舎にも、どうした訳か予科練の兵隊さんが東池の集会所に十数名が住み、松脂を二枚橋の薄荷場で生産していた。
彼らは毎日山に行き、松の根っこを掘り出していた。


食糧難で、どんぐり、芋のさや等が食料。彼岸花の根っこを掘り出し、それが接着剤になり、松ぼっくりは燃料に、これ等を大八車に積み福山へ持っていく。
神森神社の東30mのところに炭焼き小屋があり、そこで炭を2名づつ夜昼なく交代で焼いていた。
その西側に防空壕が二か所あり、空襲警報になると全校生徒が避難していた。一日に何回となく防空壕へ走っていったのを覚えている。
終戦後、剣道の道具をばらして焼き捨てるように言われる。進駐軍が来るからといって、何もかも焼き捨てていた。





大門町誌「大津野のあゆみ」より


昭和20年3月になると、国民学校初等科を除き、高等科から大学まですべての授業を4月1日から1年間、原則として停止し、学徒は根こそぎ動員されることとなった。
そして大津野国民学校の高等科の児童は、連日近くの工場や軍需物資・食料などの輸送、山野の畑地開墾作業等に動員された。
初等科の児童も運動場を耕して、さつまいもの栽培、いもの葉柄摘み、松根堀り、樹(松)脂採取、田植え、麦刈りや稲刈りなど、勤労作業に動員された。







2016年06月03日 | 昭和20年