お世話に成るいう家があったんじゃ。
呉から、呉ニ中から来ていた三○あきのりいう人が。
それが金光教の信者じゃった。
西堀端に金光教の教会の家がある、そこにいっしょに行かんかと誘われた。
おなごの先生じゃった。(娘で)中学1年か小学の6年かきれいなおなごんこがおった。
いっつも、その家でお世話になりょうた。
広いウチで、教会じゃけい。
一度、賀山の○っつつあんが来た時雑煮をしてもろうた事がある。
「おぞうにをしてあぎょうか?」言われてなぁ。
普通の民家と違ぅてなあ、そりゃあ大きな家じゃった。
昭和35・6年じゃったろうか?ワシャそこへいっぺん行ってみたんじゃ。寄ったんじゃ。西堀端の教会へ。
そしたらもう死んどった。
娘はおった、けどまだ小学の6年生くらいのことなんで・・覚えとらんのじゃ。
それで仏壇にお供えをあげて手を拝んで帰った。懐かしゅうてな。
戦災で焼けて家は作り直していたが。お供えだけは、また行ってしとかにゃいけん思ようる。お世話になっとる、そりゃ。
堀端の松山の電車道のすぐ傍じゃ。ようとおとた。市駅からも見ようた、ええ場所じゃ、西堀端は。
呉から来た人いうのは。
出身が七日市じゃた、親父が。親父なんでワシは知らんが、それで、ワシを大事にいうてくれてのう。
今は無ぅなったけど。七日市駅前に片方が自転車預かり、片方が写真屋じゃった。笹井ゆうて。
「ワシャそこの生まれなんじゃ。」
それで懇意にしょうた。
その人にゃ、助かっとるんじゃほんとに。じゃけど、その人は結核で早ぅ死んだ。
2003年3月20日