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資料・第13期甲種飛行予科練生の日課 舞鶴鎮守府美保予科練

 昭和十八年ころというと、米軍の反攻が激しくなって、日本軍は、ガダルカナル島およびその周辺の戦闘において大敗する。ニューギニアへ増援の輸送船団は、ダンヒール海峡で全滅し、その後も、アッツ島の守備隊玉砕、キスカ島の守備隊撤退と、日本は、敗戦の淵を急速にすべり落ちていた。

 海軍は、それになんとか歯止めをかけようと、十八年以降、飛行予科練習生(通称、予科練)の大量募集をおこなった。その嵐は全国に吹き荒れた。私たちは、この時期に予科練を志願し、美保海軍航空隊(美保空)の隊門をくぐった。その数は、十三期から十六期までで12.634名であった。

  ところが、海軍という世界は、十五・六歳の少年が思い描いていたような、甘っちょろいところではなかった。搭乗員の養成を急ぐ海軍は、あらかじめ造った予科練像の鋳型に、練習生を無理やりたたき込んだ。「軍人精神注入棒」などと書いたバッターで尻をなぐるなど、一般社会では考えられない罰直(体罰)と、苛酷な訓練によってである。それでも私たちは、それに従順に従い、耐えた。なぜかというと、そのつらいハードルを越えることが、搭乗員になる前提条件だと考えていたからで、燃える愛国心と「一死もって国の盾とならん」の意気込みが、支えになっていた。

 しかし、予科練を卒業して、飛行練習生(飛練)へ進んだのは、十三期だけであった。十四期以降は、海軍があまりにも大量の募集をおこなったのと、燃料が涸渇して、十三期が飛練で足踏みしたために、先へ進むことができなかった。

 そこで、なにをさせられたかというと、防空壕掘り、基地の拡張作業、滑走路造りなどであった。挙げ句の果てに、米軍の本土への上陸が予想されるころになると、飛行兵ならぬ、水中特攻、水上特攻、本土防備隊要員などとして、各地に配置された。

   そのなかには、不幸にして、訓練途上において戦死・殉職した者もあった。
 私たちは、皆さんに、その事実を伝え、戦争とはなにか、少年の死は一体なんだったのか、を考えるきっかけとしてもらいたい。

 また、今は「愛国心」というと、あいつは右翼だとか、ファシストだなどという人がいるが、私は、肉親や隣人、ふるさと、母国を愛するのは、時代やイデオロギーを越えて、人間のごく自然な心情だと思っている。だから、愛国心にいちゃもんをつける人に対しては、「国を愛してなぜ悪い」といいたい。

 この資料室で予科練を知っていただき、肉親や隣人、ふるさと、さらに、母国、母なる国を愛する気持ちを呼び覚ましてもらえれば幸いである。

1.昭和十八年(1943)年ころの戦況

 昭和十七年六月五日からおこなわれたミッドウェー海戦において、
日本海軍は、空母四隻,重巡一隻、艦載機322機、兵員3,500人を
失う大敗を喫した。日本軍は開戦以来、華々しい戦果をあげてきたが、
この海戦を転機として、日米の攻守が逆転する。米軍はまず、同年八月七日に、
ソロモン群島のガダルカナル島とツラギ島を奇襲する。これに対して、所在部隊
が懸命に防戦に努めたが、その抵抗もむなしく、両島は米軍の手におちた。

 それ以後、ガダルカナル島およびその周辺の海域において、日米が激しい
戦闘を繰り広げる。その結果、日本軍は、地上部隊の戦傷病死者約23、800人、
空母一隻、戦艦二隻、巡洋艦五隻、航空機1,053機を喪失した。この間の熟練
搭乗員多数の損失が、以後の戦闘に致命的な影響を及ぼす。

ここで日本軍は、戦略態勢の基本的見直しを迫られ、昭和十八年を防戦の年
として迎えることになる。

   2.甲種飛行予科練習生(甲飛)の大量募集

 前述のような経過があって、大量募集されたのが甲十三期だったのである。
その数を紹介するために、次に、甲十一期から十六期までの入隊者数を表示
する。

十一期 1,191名 十二期 3,215名
十三期 27,988名 十四期 41,310名
十五期 36,717名 十六期 25,034名

 このうち、美保海軍航空隊に入隊した人数は、次のとおりである。

入隊者数 入隊年月日
十三 1,207名 昭和18年10月1日
十四 4,515名 昭和19年4月1日
十五(一次) 3,495名 昭和19年9月15日
十五(二次) 1,999名 昭和19年10月20日
十六 1,418名 昭和20年4月1日

 激増した練習生を収容するには、従来の土浦、三重、鹿児島の練習航空隊だけでは、施設数が足りない。そこで昭和十八年十月に、美保海軍航空隊(美保空)と松山海軍航空隊が開設され、十二月には、三重海軍航空隊分遣隊の施設として、奈良県の現天理市にある天理教の施設を借り受けた。

 ところが、美保空についていうと、施設の建築が開隊に間に合わなかった。だから、私たち十三期は後に中練教程の練習航空隊となる第二美保空の兵舎に入れられ、そこで半年間、仮住まいさせられた。兵舎が完成したのは、十四期が入隊する十九年四月である。その時の状態はというと、兵舎の周りや道路は、まだ板切れやかんなくずが散らかっており、厠[かわや] (便所)は、ただ穴を掘ってその周りをムシロで囲っただけのものであった。
このことからみても、大量募集が極めて場当たり的なものであったことが分かる。言い換えると、海軍は、この時点で、すでに場当たり的にしか、戦況に対応できない状態に陥っていたのである。

 ここで、甲種飛行予科練習生の受験資格について簡単に触れておく。私たち十三期のときは、満十五歳以上二十歳未満であったのが、昭和十九年四月の改定では、旧制中学校三年一学期終了に変わりさらに、十九年九月の改定で、十六期のときには、中学二年終了となって、乙飛と同等になった。

      3.予科練志願

 私たちが小学校・中学校で受けた教育の基本には、教育勅語があった。その勅語の中に「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」という一節があった。むずかしい文章だが、要約すると、国に危急の大事が起こったら、国に一身を捧げて尽くしなさい、というのである。このむずかしい勅語を、私たちは小学校低学年から暗記させられた。

 また、小学校一年生の国語読本の第一課に「サイタ サイタ サクラガサイタ」とあり、一課飛んで次には、「ススメ ススメ ヘイタイススメ」とあった。これは、考えてみると、「敷島の大和心を人問わば、朝日ににおう山桜花」という詩(うた)がうらにあって、パッと咲いてパッと散る、桜の散り様を美しいものとして、まず印象づける。そして次に、兵隊を格好いいものとして、心に植え付けるねらいがあったのであろう。子供のころ、「将来なにになりたい」と聞かれたら、即座に「兵隊さん」と答える者が多かった。

 そのような教育を小さいときから受けていたから、十八年五月に、中学校長が私たちを体育館に集めて、国の危急を訴え、「今こそ諸君が立ち上がるときだ」と檄を飛ばしたとき、私たちは、それを素直に受けとめた。私の出身校は、兵庫県立豊岡中学校だが、早速各クラスごとに話し合いがもたれ、全員志願しようと決議した。なかには、血書をしたためた者もいた。後で知ったことだが、鳥取一中、米子中学、愛知一中なども、似通った状況だったようである。

  この資料室に、当時の少年の心情を示す資料がある。十四期二十三分隊員が特攻要員として美保空をたつに当たって、書き残した文である。三幅の掛け軸にはられている。これは、決して特異なものではなく、当時の少年の平均的な心情である。それを思うと、教育の恐ろしさを感じる。

4.美保海軍航空隊の特色


(1)甲飛だけ

  予科練を大きく分けると、甲種、乙種、丙種の三つがあった。受験資格と修業期間は、戦況の悪化につれて変わるが、もとは、大体次のとおりであった。

    
期別 受験資格 修業期間 制度開設
甲種 旧制中学校四年一学期終了 一年三か月 昭和十二年
乙種 尋常高等小学校高等科卒業 二年十一か月 S昭和五年
丙種 海軍内部から選抜 六か月 昭和十五年

美保空に入隊したのは、このうち、甲種だけであった。したがって、他の航空隊のように、甲飛と乙飛の摩擦はなかった。

(2)出身地

  十三期の出身地は、富山、石川、福井、滋賀、京都、鳥取、島根、広島の八府県で、ほとんどの者が裏日本育ちであった。したがって、『昭和十九年度美保海軍航空隊教育計画』のなかの「教育実施上特に留意セントスル要点」の一つに、「主トシテ裏日本的気象ノ下ニ成人セル当隊練習生ノ実情ニ鑑ミ、特ニ体育ヲ励行シ、明朗闊達、進取積極的気風ヲ馴致シ、以テ実戦ニ遺憾ナキ強靱ナル体力、気力ヲ錬成、性格化セントス」と記されている。

  ところが、十四期、十五期になると、新潟、山形、大阪出身者および満州、朝鮮の中学校出身者も加わった。特に、十五期二次については、全員、満州、朝鮮からの入隊者であり、内地からの入隊者以上に、愛国心に燃え、士気旺盛であった。

(3)苛酷・残忍な罰直(体罰)

   先に記したとおり、美保空は、急造の新設航空隊だったので、施設が整っていなかったし、訓練機材も不備であった。しかし、それ以上に問題だったのは、にわか仕立ての班長・教員が多かったことである。練習生が急増したのだから、それに見合う班長・教員が必要なのは当然だが、予科練教育の経験者は、三重空から移ってきたほんの一部の人にすぎなかった。後は、戦地帰りの気性の荒い人達で、教育者というよりは、実戦屋といった方がふさわしかった。

  したがって、なにかというと「娑婆気を抜く」とか「気合いが入っていない」といって、バッターを振るった。海軍には、いろんな罰直があったけれども、その中でも、バッターは代表的な者ものだから、ここで、私が所属した分隊の実例を挙げる。


  入隊して三日目であったと記憶する。「軍人精神注入棒」「大東亜戦争完遂棒」「愛情の発露」などと書かれた何本かの棒が祭壇に祭られていて、訳の分からないまま、その棒を拝まされた。その後「娑婆気を抜く」といって、その棒で、一人五発ずつ尻をなぐられた。悲鳴をあげる者、倒れる者、まさに地獄絵図そのものであった。「娑婆気を抜く」とか「軍人精神注入」とは、一体どういう意味だったのかというと、徹底的に上官の恐ろしさを知らせて、命令に従順な人間をつくることだったのである。

入隊直後の一か月を、練習生がどんな気持ちで過ごしたかを知っていただくために、次に、同郷の大橋栄作君の日記を紹介する。

十八年十月二十三日
 朝、起床のとき、釣り床のくびり方悪く、ロープにて三回、日高教員より打たれ、ために、一日中足の具合が悪かった。日々の暮らしが毎日恐ろしくて、全く明朗はどこかの隅に隠れて影もなし。
 昨日より昼食後、防火訓練あり。ますます体は忙しくて、休める暇なし。全く気の張りにて生活しているわけで、地獄もかく変わりはなかろうと思われる。

十月三十一日
 朝よりぐっと気温下がり、にわかに寒く、夏シャツ一枚では、とても耐えられぬ寒さだった。
伯耆大山も頂上に雪をほんのり白くかぶっているようだ。明日より一等飛行兵となるので、階級章を腕につけた。

 準備教育も今日にて終了。二等飛行兵も今日でさよならだ。ひと月を回顧するに、自由生活より規律厳正なる軍隊生活に飛び込み、烈しき猛訓練を朝より夜寝るまでおこない続け、体もとかく痛みがちで困った。体もずっとやせてきた感じだ。

 準備教育は烈しきと予想せしも、いざ入ってみると、より以上ものすごく、寝るのさえも、釣り床教練のため恐ろしく感じた。ひと月たった今でも、やはり真剣だが、だいぶ落ち着いてきた。全く全身、全知奮いて、夢中で送った十月。一生にて一番大きな思い出と共に、一生去らぬ深い感激がある。

(4) 将校練習生

 厳しい訓練に心身ともに疲れ、しかも、毎日続く罰直に、練習生は戦々恐々として、いしゅくし、覇気を失っていた。その状態をみてとった教育主任(副長)は、なんとかしなければ.....と思われたのであろう。

 まず、第一弾として、各分隊に、バッターを自粛するように通達を出された。さらに、昭和十九年二月上旬に、総員集合をかけられ、その場で、私たち練習生に、「今日から皆を将校練習生と命名する。皆は一般の下士官、兵と違って、近い将来、将校になるのだから、自分たちは、一般下士官、兵と違うのだという誇りと自覚をもたなくてはいけない」といわれた。

 私は、これは、練習生にプライドと覇気をもたせようという、親心からの発言であり、ほかに他意はなかったと思っている。ところが、班長・教員の中には、我々下士官を侮辱する発言だと、練習生に当たり散らした人もいた。

 今の人たちは、将校といっても意味が分からないかもしれないので、簡単に説明する。軍隊の階級は、大別して、士官・下士官・兵の三つに区分されていた。将校というのは、このうちの士官のことであり、戦闘の指揮をするのが任務である。

 副長は、私たちに、皆は将来、将校になるのだといわれたが、予科練が将校になるには、七年かかる。当時の状況から、練習生がそんなに長く生きられるはずがなかった。にもかかわらず、将校練習生なる名称を思いつかれた。そこにいたるまでの副長の苦慮がうかがえる。

  副長は、その後も、伍長や甲板練習生たちを庁舎会議室に集められて、現場の状況を聞いて、直接指導された。さらに、「美保空の伝統について」「将校練習生について」など、テーマを与えて練習生に作文させ、優秀な作品は、会で発表させられた。これは、練習生が目先のことだけにとらわれず、広い視野から物事をとらえる習性を身につけるように、との配慮であった。
 将校練習生という名称がつかわれたのは、数ある練習航空隊の中で、美保空だけであった。

5.予科練はどんな教育を受けたか

 
  予科練教育は、知識・技能の修得、精神力の強化、体力の増強の三つが柱になっていた。以下に、その主なものを挙げるので、予科練像がどんなものであったかを読みとっていただきたい。

  (1)教育システム

  入隊するとすぐに、大体一七〇名くらいを一単位として、分隊が編成され、さらに、そのなかを二十名くらいの単位で、班が編成された。そして、各分隊には、分隊長一名と、それを補佐する分隊士数名が、班には班長と補助教員が配置された。教育の最高責任者は、いうまでもなく司令であり、その下に、教育主任と体育主任がおかれて、そこから、各分隊に教育方針・教育計画が示されるかたちになっていた。

 予科練教育の特色は、ひと言でいうと実践教育であり、そのなかで最も影響を与えたのは、練習生と起居を共にし、日常の立ち居振る舞いについて細かい指導をした班長・教員であった。

(2)修業期間と日課

  私たち十三期のとき、修業期間は、当初一年間の予定であったのが、途中で、十か月に短縮された。うちわけをいうと、最初の三か月が一学年、残りの七か月が二学年であった。一学年では、海軍軍人としての一般常識、軍規、制度などを教え込むことと、婆婆気を抜くことに重点がおかれていた。

 三か月目に入ると、操縦員と偵察員とに分けるための適性検査がおこなわれた。その検査の一つに、手相・骨相の鑑定が採用されていたのには驚いた。海軍は、当時の科学の最先端技術を結集した軍艦や飛行機を城として闘う集団であった。だから、科学知識の水準は高かった。その海軍で、手相・骨相とは?

 ちょつと横道にそれたけれども、適性検査が終わると、操縦、偵察別に分隊編成がおこなわれて、二学年に入る。二学年から、いよいよ搭乗員としての教育がおこなわれるのである。

日課表

(3) 知識・技能

  履修科目は、国語・数学・物理・化学・地理・歴史などの普通学と、精神教育・軍制・兵術・通信・航空・航海・陸戦などの軍事学の二つであった。特徴は、毎週月曜日の一時限に精神教育がおかれていて、軍人精神の注入にポイントがおかれていたことである。その内容を具体的に示すために、例を挙げると、「武士道の真髄」 とか 「楠正成の忠義」などで、個を捨てて、国のために生きることを、徹底的に教え込まれた。

  普通学の数学・物理・化学などについては、修業期間との関係から、飛行要務に直結する内容に限定されていた。
  軍事学の一つ、陸戦で、今も記憶に強く残っているのは、野外演習である。入隊して六か月目に、航空隊周辺で、陸戦演習がおこなわれた。ほとんど航空隊内に閉じ込められていた私たちにとつて、隊外での演習は、開放感があって楽しかったが、畠のなかを走り回って、農家の方々には、随分迷惑をかけたのだと思う。

 さらに、八か月目には、大山に登って、宿坊に分宿して、桝水原で四日間訓練をおこなった。後で聞いたことだが、この陸戦訓練は、陸戦術を身につけるというより、陸上戦闘の様相を知って、偵察、伝令、報告などの要領を会得するためのものだった、ということである。

  (4) 休技・武技

 これは、搭乗員としての適性体力の強化と、強い精神力の育成を目的とした教科(課外も含む) である。精神面で特に強調され、記憶に残っているのは、「頑張精神」 「攻撃精神」 「犠牲的精神」 「責任観念」などである。

 体操 海軍には、海軍体操と呼ばれるものがあった。これは、デンマーク体操である。特徴は、柔軟性と強靭さの養成にあった。私は中学校時代、比較的運動をやっていたけれども、それでも一週間もたつと、体がはって、便所で座ったり立ったりするのに難儀した。そのくらいきつかった。

 予科練における体操のもう一つの特徴は、マット体操である。跳躍、転回の演技は、海軍名物といわれた。

  一万メートル駆け足 これも海軍名物といわれていた。海軍では、駆け足が、体力増進と精神力強化の基本と考えられていた。したがって、毎日、朝礼後に、食卓番以外は、大体2、000メートルくらい走らされた。また、気合いが入っていないとか、軍人精神が入っていないという理由で、罰直として、しばしば駆け足をさせられた。

 さらに、毎月八日 (大詔奉戴日) には、一万メートル駆け足行軍がおこなわれた。この行軍で、やかましくいわれたのは、「落伍者を出すな」ということである。だから、落伍しそうな戦友には、肩を貸して走った。雨のときなどは、肩を貸す方も、つぶれそうになるほどきつかった。

  棒倒し 旺盛な攻撃精神と胆力を錬るために、しばしばおこなわれた。防御軍、遊撃軍、攻撃軍の三つに分かれて闘う。簡単に説明すると、防御軍は、自陣を守る。遊撃軍は、防御軍の周囲にいて、敵の攻撃を妨害する。攻撃軍は、敵の防御軍に飛び込んでいって、早く敵の棒を倒す。私は、比較的足が早かったので、攻撃軍の先頭に立って敵陣に突っ込み、後続の攻撃軍が棒によじ登りやすいように、土台になる役を負わされることが多かった。だから、ほとんど戦況をみることはなかった。

  闘球 現在のラグビーと若干ルールは違っていたが、海軍式ラグビーと考えてもらえばいい。ラグビーは、実戦に似通った要素をもっており、注意力の訓練、チームワークの鍛錬、突進力、犠牲的精神、頑張精神の養成のために、よくおこなわれた。

   柔道・剣道・銃剣術 いずれも実践武道と呼ばれており、→般社会でおこなわれていたものとは、ルールが違っていた。三種目のうち、どれか一つを選択させられたので、私は、柔道を選んだ。特徴は、ただ投げるだけでなく、投げた後、当て身を入れることであった。道場が十九年一月に完成するまでは、砂場で乱取りをさせられたので、何回か投げられると、砂まみれになった。

  相撲 海軍では、相撲が盛んであった。相撲では、立ち会いに相手におくれをとらないこと、相手にぶつかるときの集中力が強調された。十九年七月、卒業の月に、相撲競技がおこなわれた。私は随分張り切っていた。機先を制して相手を一蹴するつもりで、頭を下げて突っ込んでいったところ、すかされて、ほとんど相手の体にさわらずに、土俵を飛び出してしまった。これによって相手をよく見ることの大切さを教えられたが、しばらくは、無念さが消えなかった。

  カッター(短艇)海軍のカッターは、漕ぎ手十二人、艇長一人の十三人乗りで、大きかった。オールも随分大きく重かった。訓練は中海でおこなわれた。波が小さいときはまだいいが、波が高いときなど、オールが思うように扱えず、ときには流されてしまうことがあった。
オールを流すと班長の罵声が飛ぶ。それだけならいいが、ときには、手旗で首や腕をなぐられた。私の友人は、腕力が弱かったために、よくなぐられて、飛練へ行くころには、首がはれて横に回らなくなっていた。

カッター訓練で最もきつかったのは、何回か漕がされるうちに、尻の皮がむけてきて、それが治らないうちに、また漕がされることであった。今から思うと、よく耐えたものだと思う。

 (5) しっけ教育
  日常の起居動作における機会教育の中心は、班長・教員であった。
 しっけ教育では、注意力と協同精神を強調して、形による外からの教育と、内に培われるものの発現に意が払われていた。内容的にいうと、言葉、行動、食事作法、服装、銃器の取り扱いなど、多岐にわたっており、被服点検、寝具点検、銃器点検などが、大体、月一回予定されていた。

 つらかったことというと、食卓当番がご飯とおかずの碗を左右おき違えると、配膳し立てのテーブルをひっくり返されてしまうことであった。当時、予科練では、一日4,000カロリーを摂らせていた。それでも訓練が厳しかったので、量が足りなかった。それなのに、一食抜きになってしまうのである。そのときは、班長の顔が鬼のように見えた。

 以上、教科・課業について概観した。そのどれを採っても、少年にはきつかった。しかし、飛行機乗にやり直しはきかない。だから、常に敵よりも強くなければならなかったし、味方のなかでも強くなければならなか一つた。そのために、前述のような並はずれた厳しい教育・訓練がおこなわれたのである。私たちは、その教育・訓練に、体力のすべて、精神力のすべてを注いで取り組んだ。それは、一身を賭して、肉親や隣人、ふるさと、国を守るという愛国心からであった。

 慶応義塾大学出身のある予備学生が、出撃が間近になったころの日記に、故郷・郷土について、次のように記している。
 「私は郷土を護るためには死ぬことができるであろう。私にとって郷土は愛すべき土地、愛すべき人であるからである。
 私は故郷を後にして故郷を今や大きく眺めることができる。私は日本を近い将来に大きく眺める立場になるであろう。私は日本を離れるのであるから。そのとき、私は日本を本当の意味の祖国として郷土として意識し、その清らかさ、高さ、尊さ、美しさを護るために死ぬことができるであろう」 と。

     6. 予科練も作戦部隊に編入

  海軍は、昭和二十年三月一日に、戦時編成を改編して、予科練を作戦部隊に繰り込んだ。この改編でなにが変わったかというと、予科練教育が中止されて、練習生は、美保基地の拡張作業や新川基地(島根県) の建設作業など、つまり、土方作業に従事させられたことである。

 そして、五月下旬から六月にかけて、十四期は、蛟龍、海龍、震洋、グライダー、佐伯防備隊の特攻要員として、各地に配備され、空になった美保空は、六月三十日をもって解隊となった。

 また、新川基地の建設に当たっていた十五期二次の一部は、壁面のパネルにみられる伏龍隊員ー 五〇キロもある潜水服を身につけて、手に棒地雷を持って水中に潜り、米軍の上陸用舟艇が頭上にきたら、舟艇の底を棒地雷で突く-に回された。

 練習生の去った美保空の兵舎がどうなったかというと、米軍の空襲の被害を軽減するためか、七月に取り壊されてしまった。

     7. 戦死・殉職者

  私たちの同窓には、訓練途上において、無念にも戦死・殉職した者がいる。また、沖縄の空に散った者もいる。最後に、その人たちの死直前の心境と、それぞれのご遺族の計り知れないご心痛に思いを馳せ、見学者の皆様と一緒に、心から冥福を祈りたい。

十三期 戦死・殉職者 
氏 名 出身地 年齢 戦死・殉職地 死亡年月日
本田 茂 島根 - 美保海軍航空隊 昭18.10.30
持田 政幸 島根 - 鈴鹿海軍航空隊 19.11.17
金築 昭吉 島根 - 鈴鹿海軍航空隊 19.11.
山脇 巌 鳥取 18 土浦海軍航空隊 20.2
小寺 一郎 富山 - 峯山海軍航空隊 20.2
植村 進 奈良 - 神町海軍航空隊 20.3
山形 正三 富山 - 博多海軍航空隊 20.3
川崎 弘三 福井 17 玄界灘沖 20.4.3
川島 純雄 石川 18 玄界灘沖 20.4.3
福永 巧 大阪 - - 20.4
曽根 寛 京都 18 京都府中郡山中 20.5.7
鐘築 昭一 島根 18 京都府竹野郡上空 20.5.14
池田礼次郎 京都 19 大分県下毛郡沖 20.5
岩崎 果治 島根 17 観音寺上空 20.5
吉田 哲朗 鳥取 18 大隅半島内之浦付近 20.6.5
丸田 進 富山 17 大隅半島内之浦付近 20.6.5
浅谷 信夫 京都 16 峯山海軍航空隊 20.6.5
野村 勇 富山 17 京都府江尻海岸付近 20.6.5
打田 源二 石川 18 土浦海軍航空隊 20.6.10
小酒 悟郎 鳥取 19 沖縄(特攻琴平水偵隊) 20.6.28
柴田 友一 富山 19 霞ヶ浦海軍航空隊 20.7.10
長谷川 清 島根 17 霞ヶ浦海軍航空隊 20.7.10
馬場昭三郎 鳥取 17 熊本県芦北町国見山 20.7.12
竹本 興守 石川 18 福岡県鞍手郡上空 20.7.29
鈴木 治 福井 17 築城海軍航空隊 20.7
大隅 芳男 京都 20 築城海軍航空隊 20.8.7
片山 辰雄 富山 16 築城海軍航空隊 20.8.7
鞠山誠次郎 福井 18 築城海軍航空隊 20.8.7
佐々森 登 島根 17 築城海軍航空隊 20.8.7
佐伯 耕 島根 20 築城海軍航空隊 20.8.7
瀬野 昌一 新潟 17 築城海軍航空隊 20.8.7
高坂 競平 石川 17 築城海軍航空隊 20.8.7
谷 昭夫  京都 17 築城海軍航空隊 20.8.7
福岡甲矢雄  京都 20 築城海軍航空隊 20.8.7
丸山 正司 石川 19 築城海軍航空隊 20.8.7
山口 政義 福井 18 築城海軍航空隊 20.8.7
山田 四郎 大阪 17 築城海軍航空隊 20.8.7
横江 要 富山 18 築城海軍航空隊 20.8.7
十四期 
氏名 出身地 年齢 戦死・殉職地 死亡年月日
原  辰夫 岐阜 美保海軍航空隊 昭19.4.28
鈴木 和男 新潟 15 美保海軍航空隊 19.8.10
菊地 美保海軍航空隊 19.10
太田 玲二 千葉 18 宇和島海軍航空隊 20.8.8
片本  隆 大阪 宇和島海軍航空隊 20.8.8
加藤 正樹 福井 宇和島海軍航空隊 20.8.8
門田 歳雄 宇和島海軍航空隊 20.8.8
長井 義明 大阪 宇和島海軍航空隊 20.8.8
中村 武夫 新潟 長崎(原爆被爆) -
   十五期二次
氏名 出身地 年齢 戦死・殉職地 死亡年月日
松尾 遼夫 関東州(大連) 17 美保海軍航空隊 昭19.11


   


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2003年3月21日