戦時の女学生
岡山県立井原高校80年「八十周年誌」より転記する。
-------
昭和19年7月高等女学校3年生は鉢巻をしめ防空帽をかぶり、胸に住所氏名と血液型を書いた布を縫い付けたモンペ服の上下に救急袋をさげたいで立ちで、市域の軍需工場へ工場動員された。
高屋織物では戦地へ送る蚊帳を織り、中国織物、井原興業の被覆部・織布部や三和被服・井原精螺の各工場へ配属された生徒は、納期が迫ると残業して、軍服や戦闘帽の手直しをして、針を持つ手に血がにじむほどの苦労を重ねた。
5年生は翌20年4月学徒動員として倉敷の万寿航空機製作所へ出かけ、ハンマー・鋲打などの訓練を受けて、やがて爆撃機の翼の組み立てに配属され、手に血豆をつくりながら頑張り、まもなく三交替制の厳しい労働を強いられていった。
2017年01月14日 | 昭和16年〜19年