昭和18・19年頃の岡山市民の生活

2017年01月16日 | 昭和16年〜19年


「岡山市史 戦災復興編」から転記する。

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戦時中の岡山市民の暮らし
一・県の調査
昭和18年9月頃、企画院(昭和12年新設)から県民の生活などについて照査した。

食生活
憂いべく現象は、幼児・児童にして弁当を持参し得ざる者あり、甚だしきは他の者の弁当を盗み食いするものもままある。
衣生活
乳幼児の綿物の増配と農業者に対する衣料の質の向上を計る要あり。
住生活
保健的見地より改善指導すべき点多々あり。

二・市民生活
必要数が配給されず、必然的に闇取引が盛になった。
服装
戦時装服が強化されて男子は国民服にゲートル巻、女子は筒袖にモンペをはく軽装に統一された。
食物
麦混食など奨励していたが、それでも不足するので玄米食を奨励した。
代替主食
従来、米の不足を補うため、麦、麺類、小麦粉、パン、芋等を統合配給していたが、19年4月から加工大豆を配合することになった。
どんつく
メリケン粉に米糠、野草を混ぜて焼く
国民食堂
岡山市内に60ヶ所。一回の食事代は50銭、1円の2種。
電気
18年12月より一般電燈は制限強化。
映画館
1週1日の休日制をとる。
日曜・祭日の1日4回上映は3回にする。
10時閉店
定刻10時よりも幾分早く午後9時頃よりぼちぼち戸を閉めるかけ、10時には燈のない商店街を実現した。天満屋のエレベーター3台のうち、2台を金属供出した。
一戸一灯を厳守
大政翼賛会や合同新聞が「1戸1灯を厳守、電力を戦力へ活かそう」と呼びかけた。
ニュースが聞けない
点灯時間を引き締めたため、生活上いろいろ不便が来たし、何とか方法はつかぬかと民間から声が聞こえ始めた。

その他
旅行禁制
決戦に、暮も正月もない「止めてください勝つ日まで」
乗合馬車
19年10月市内に15人乗り乗り合い馬車が颯爽と登場した。区間は瓦町電車終点から福島バスの終点まで6キロ。現在バスが運行していると同じ、大雲寺町福島線の人絹道路を並木に沿うて走り、料金は40銭。
墓石も中止
19年6月石材工業者、庭師、植木師の決戦措置が岡山県で決まった。1年間休止する。県貨物、陸上小運搬組合、機帆船などでも1年間取り扱わぬこととした。






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