歩いて5分くらいの所に叔母はすんでいる。
GWの中日叔母を訪ねると、孫たちも学校へ行き家でひとりのんびりしていた。
帰る時叔母は「草みしりを昨日もした、そしてまた今度は田圃のゲシもしなくては。」と、元気がよかった。
このホームページに書かれた叔母の話にウソはないけれど、いくらかの記憶違いはあろうかと思える。なにしろ、もう60年もまえの事だから。
父が現役兵で徐州・漢口戦、赤紙での二度召集された軍人生活に比べ、叔母の満州の話もそれ以上に苦しい悲惨さを感じた。
父が以前話していた妹夫婦の話と、叔母が話す内容には合致しないところがある。
@義弟は満州で「満鉄」に勤務していた。
A妹夫婦が満州から引き揚げた時、笠岡駅で再会した。
B妹夫婦の子供。
その事を確認してみた。
@は確認していない。勝手に父が「満州」て働くイコール「満鉄」と言っていたのだろう。聞こえは良いし、それによる被害者もなし、知る人もなし。
Aは叔母によれば、それは「思い込み」であろう。「兄に何回も話した事が、自分でそのように思い込むようになったのであろう。」、との事であった。そうだと思える。
実はBが一番の問題であった。
叔母を訪ねるに当たり、この事があるので叔母にとって「満州」でのことは封印されて当時の話は拒否されるのでは無いか、との思いがあった。
拒否されたとしても、それはまた当然のことでもある。
叔母の話によれば「子供がいない、いなかったので・・・満州からリュック一つで笠岡に戻れた。」
叔母には満州で長男が生まれていた。
母に聞くと(2002・5・3)、母はその名前まで覚えていた。
叔母が満州の戦後の中でどのような事情で亡くしたか、それは今本人しか知らない事ではあるが。既に叔母の胸のなかには長男がいた事自体を完全に無かった事として生きている。

(おばは4人兄弟・左からおばとの関係、弟・長兄・次兄・本人。・全員大正生まれ。現在、次兄が亡くなっている。長兄が作者の父である。)
2002年5月4日