その当時、何処の田舎の家にもみられたが、戦災、復員、引き揚げで家は満杯状態のウチがよくあった。
(夫の)長兄は陶山にいたが、次兄は呉の家が焼けてココに居た。
次兄夫婦には赤ちゃんをいれて3人子供がいた。
私ら二人をいれて家は九人家族じゃった。
それで食べていけんので、小作に出しとったところを「食べていけん」事情話し、戻してもらい百姓をするようになった。
二人共慣れん百性をはじめ、それからが苦労の連続じゃった。
百性するよりてがなかった。
朝5時頃から晩まで働いて・・・そしたら米だけは食べられるわなぁ。
そうしょうたら茂平の父親が可哀相な思うたのかわらんが。
もののあるウチで子無しの家に、夫婦二人もろうてくれんかという話があったり。
茂平に大阪で出世した人が、働きにこないか。そういう話があった。
九人家族での生活を親が可哀相と思ったのと、自分も出たいという気持ちがあった。
こんどは矢掛におばあさんの妹に子供がおらん、旦那は死んでおばあさん一人。そこに来てくれんか。
ここのおじいさん(姑)が「兄弟3人のうち上の二人は学校へもいかしている、独立する時は援助もしている。三男だけなにもしていないから、三男が跡を取る。」
その一存で決まった。次兄が矢掛へ行った。
2002・4・30