本によれば、満州の日本人は終戦近くには「根こそぎ動員」されたとあるが、おじさんは兵にとられなかったのか?
また近所の男性はどうだったのか?
みんなとられた。(兵に)いってしもうた。
運がようウチには軍隊(会社内かも?)で教育するほうへまわされとった。(終戦後は会社はなくなってクビになったが。)それで吉林を離れずにすんだ。
安田さんは(兵に)とられた後シベリアへ行き、生きて帰って。やりてなんじゃろね、四国で老人ホームを経営しとる。
ソ連が満州へ進行してきたのは終戦1週間まえだが、そういう攻めてくるという情報またうわさはいつ頃知り、意識したのか?
明日ロシアが(吉林)へくるので、ひとところに集まり、みんな「いつ死ぬんか?どうやって殺されるんか?」ゆうて話をしょうた。
上の話は恐るべき情報のなさである。
満州奥地の開拓団が最大の犠牲者であることは間違いないが、「吉林の日本住民も棄てられていた」そのことは同じである。
2002・4・30
関東軍の精鋭部隊は昭和19年から南方戦線に送りだされ、やむなく満州邦人の根こそぎ動員によってその穴を埋めた。
「猟銃でもなんでも、武器になるものはもってこい。」というひどい状態で、小銃などは全員にいきわたらなかった。
「そうならざるを望む」しかなかった関東軍
連合国側では原爆を持つ米軍は、もはやソ連軍の日本への侵攻協力は必要なかった。
ソ連はなんとしても北海道周辺、大陸の利権はてにいれたい。
日本は藁をつかむ思いで、ソ連に名誉ある終戦仲介を依頼していた。
満州の関東軍は「そうならざるを望む」、その願望しかなかった。
以上「満州国と関東軍」より
日本と関東軍の立場がなにか笑ってしまうほど悲しい。
日本政府はソ連と停戦協定を結ぶことなど考えてもいなかった。
昭和の日本軍は日清・日露の戦いの時のようなどの軍にも国際法の専門家を配置するという従来の教訓も無視していた。
昭和の日本の指導者というのは一言でいえばそれくらい夜郎自大であった。
が、ひとたび敗北の悲運にあうと裸の王様のなさけなさを示すほかなかった。
「ソ連軍が侵攻した夏」
2002年5月2日