松浦岩蔵氏は明治2年2月25日城見村大宣に生まれ、日清戦争除隊後全家を携えて転居。
松浦氏は尋常小学校を卒業後農業を手伝っていたが、明治19年18歳の時発心して、無縁の孤島に等しい国繁の不毛の地に移り開拓に着手した。
氏は日清・北清・日露の三役に従軍した。除隊後、旧家を去って一家をあげて国繁に移籍、雇用を排して家人を督励、自力をもって細道さえない不毛の山麓から海岸に至る約2町歩を開墾。
葡萄栽培に特に熱意を傾け、大正天皇御登極の際、葡萄献納の栄光に浴し、栽培品種は欧州種の路地栽培(当時県内に欧州種の栽培に成功した人はいなかった。)
に先鞭をつけ、マスカット・ハンブルグに成功し、三尺、キャンベル・アーリー、デラウェア、甲州、なかんずく甲州葡萄については山梨の主産地を訪れ、帰郷後葡萄研究会を組織し、長梢剪定方の統一を目論み、みずから砲兵の射程測定を則りその適正を判定すると称して、二芽の短梢と二間の長梢剪定を比較し熱心に研究を続けた結果、遂に長梢の否を覚った。
また園内の小谿を利用して旱害を防ぐ施設、一方暗渠を構築して排水にそなえ、強砧利用によるフヰロキセラ予防はともに本県の草分けであるり、園の一側に枇杷を栽植して潮風害を防ぎ、経営労力の節減のため葡萄棚を高め、中耕、除草、施肥一切を蓄力に委ねるため、随時支柱を除くも馬耕に支障なからしめ、これがために婦子女の作業に支障なきよう高下駄を園内各所に配すなどその着想は衆人を驚嘆せしめた。
明治28年海岸に荷揚げ場構築して果樹の出荷はほとんど舟艇を駆使して、帰路必ず福山、笠岡、金浦より塵埃、紡績屑を搬入利用することを園の生命なりとし。
剪定屑、落ち葉、籾殻をもって燻炭製造設備を設け、加里給源として重用し、当代既に全面施肥、腐植の重要性をもって垂範していた。
除虫菊栽培の端緒を拓き勘説に努め、犬をもって園番に任ぜじめ、用便に当っては止め金を伸ばし寸暇を惜しむに至っては、その透徹した経営構想と実行力を衆人等しく驚嘆するところである。
2001年5月1日