昭和初期の城見小学校
(おじの話・昭和2年1月2日生まれ)
城見尋常小学校の時(昭和8年4月1日〜昭和14年3月31日)
笠岡商業学校の時(昭和14年4月1日〜昭和19年3月31日)
(昭和5年の陸軍特別演習は?)
記憶が・・ない。
(真田講堂が完成した時のこと、落成記念とか)
覚えてない。
(奉安殿ができた時)
ワシ等の時にはなかった。それははっきり言える・・・と思う。
金次郎は覚えておらん
(父が入隊する時)
ご馳走とか宴会した記憶はない(静かに入隊したようだ)
(皇紀2600年の祝い)
笠岡の港に大きな飾った船が来た。笠岡にも寄ってくれた。
それを歓迎するために学校(笠岡商業)から駆りだされたのを覚えとる。
出征兵士の見送り
(学校から)
旗をもって線路際で送るのはしょっちゅうじゃった。
支那事変からは、
毎日のように送った。
八幡さんのとんど
何年に一度かはお宮で火を焚いた。龍王(りおう)さんの雨ごい。
(小学校の遠足の行き先は?)
大見山に日の丸弁当もって行とった。
(小学校の同級生の)六月さんのこと
いっしょに福山工業の応用化学を受けた。
戦争があり、新しくできた科で人気があった。7人に一人か、5人に一人しか合格せんいわりょうた。
二人とも落ちて、六月さんは金中に行って、ワシは笠商へ行った。
六月さんは(金中から)陸軍士官学校に行って、(終戦で)ぱーになり、姫高に行った。
「ワシの息子は大臣にするんだ」、という話は聞いた。親父が直接言うとった。小学校の頃じゃった。
兄の武徳さんは「高文」(こうぶん)試験を通って、県の課長になった。村の映画をしてまわりょうた。学校は苦学で、選挙は親父の意志じゃろう。