赤痢は死ぬ病気だったか?

昭和20年、
現在の福山市域では、米軍の福山空襲による死者数よりも赤痢で亡くなった人の方が多かったそうだ。

管理人の家では(以下母の話)昭和20年
隣家のおじさん(50代)が出所で、祖母(当時50代)、曽祖父(80代)がなり、隔離病棟に送られた。いちばん年長の曽祖父のみが亡くなった。


資料によれば、昭和20〜40年までほぼ毎年100.000人程度の発病者がいた。
患者数に大きな変化はないが、死者数は激変している。
昭和20年に10.000人程度だった死者は、昭和40年には1000人。昭和50年には患者1.000人、死者10人程度。
怖い伝染病とはいえ、貧者・弱者が死亡していたようだ。


笠岡市笠岡では東京五輪の年、飲み水にも事欠き、200人赤痢患者がでたが死者はいなかった(と思う)。日本が既に貧国ではなかった一つの証明かな?





昭和20年、茂平の赤痢

母の話・2001.1.1

伝染病はおそろしいなあ思うた。

おばあさん(管理人の祖母)と利三郎じいさん(管理人の曽祖父)がなった。
(※祖母は治り、曽祖父は亡くなった)
役場の人が来て、石灰をもってきて家の下や便所へ粉を撒きに来た。
あの時きゃあ、そりゃあ怖かった。
(長女)ひろ子を背負うて、(隔離所まで)行きょうた。

おおぜい死んだけえなああの時は。
かずっさん方のむねさんゆうお爺さん、
観音堂の先生方の親、
隣のかあさんとおばあさんが二人行ったが治って戻ちゃつた。
いわさん方のおばあさんが行った。
いわだにのおばあさんも死んだ。

大≠ノも流行って(長女の同級生の)kさんのお母さんも死んだ。

うちにや福山まで伝染(うつ)って、あいちゃんの妹が死んだ。
可哀想に、まだ女学校に行きょうる時じゃった。






茂平の生活 

2016年12月14日 | 暮らし