えいちゃん2008年8月


むなしゅうなるのう、「姫」の無節操  投稿者:えいちゃん  投稿日:2008年 8月30日(土)13時35分9秒
  去年の参院選挙で当選し、全国的にさわがれた姫井議員。
その後といえば。
週刊誌で男性スキャンダル、
それに懲りず自叙伝出版、
あげくの果ては民主党退会届け、
一晩寝ると翌日で撤回。
むなしゅうなるわい、
でも。虎さんに投票したほうが良かった、とは思わない。
8/30・走行10キロ。
 


午前9時笠岡の空は暗ぅなって  投稿者:えいちゃん  投稿日:2008年 8月30日(土)13時33分54秒
  8/29の午前9時笠岡の空は夜のようになった。暗くなった。
そして雨が降ってきた。
昼ごろまで降ってから止んだ。
1時間44ミリ。(1日63ミリ)
茂平ではヒルタの前の駐車場の車が車体すれすれまで浸かっていたようす。
福山では1時間91ミリ、ヤマデン構内も水浸しになったそうだ。
8/29・走行なし。
 


『土佐引退 母校で表明』  投稿者:えいちゃん  投稿日:2008年 8月30日(土)13時32分27秒
  新聞記事では、北京五輪の報告に訪れた母校で土佐礼子選手は引退を表明したそうだ。
場所がいい。
さすが後輩。
えいちゃんはせめて母校の名をけがすことのないように、笠岡のスミで、ひっそりと、元気に、面白く、暮らそう。
8/28・走行なし。
 


復活「吉備路マラソン」  投稿者:えいちゃん  投稿日:2008年 8月30日(土)13時30分59秒
  吉備路マラソンが復活するそうだ。
岡山県には倉敷市も岡山市もマラソン大会がないから、その近郊の総社市がマラソン復活はうれしい。
でも、あの有名な、時間ぴったし関門がちゃんは・・・復活してほしゅうないのう。
8/27・走行なし。
 


はやくも「丸亀ハーフ」の手紙が届いた  投稿者:えいちゃん  投稿日:2008年 8月26日(火)06時30分3秒
  まだ8月だというのに来年2月の丸亀ハーフマラソンの手紙が来た。
丸亀ハーフはいい大会だからゴールしたらもう、来年を楽しみにしている。
走るのも楽しみ、
大会のTシャツも楽しみ、
走ったあとの行楽も楽しみ、
テレビに映るのか?も楽しみじゃなあ。
8/26・走行なし。
 


蒜山高原マラソン  投稿者:えいちゃん  投稿日:2008年 8月26日(火)06時28分58秒
  蒜山にはまだ申込をしていない。出場種目に迷っている。
その理由に今年から10キロのスタート時間が早くなったこと。
それで、そんなら10キロに出てゴールの後は蒜山縦走でもしようかと思っている。
8/25・走行なし。
 


青野ぶどうマラソン  投稿者:えいちゃん  投稿日:2008年 8月26日(火)06時27分51秒
  今年のブドウマラソンは欠場する。
出るつもりでいたけど、
なんぼーにも、
郵便局まで行くのが、
できんかった。
支払い方法を変えてくれんと来年も欠場じゃな。
8/24・走行なし。
 


史上初あるいは80年ぶりの快挙  投稿者:えいちゃん  投稿日:2008年 8月24日(日)06時35分47秒
  男子400mリレーで日本が三位・銅メタル。
日本の五輪では人見絹江以来のメダルで、男子では初だそうだ。
この北京五輪では水泳の北島がいちばん輝いていたが、
陸上でも魅せてくれたなあ。
8/23・走行なし。
 


「笠岡路上観察研究会発表会」はじまる  投稿者:えいちゃん  投稿日:2008年 8月24日(日)06時32分36秒
  山陽新聞・中国新聞・読売新聞にはイベント情報で載り。
はじまった発表会は山陽新聞と中国新聞に写真入りで載った。
えいちゃんは8/22は仕事日なので欠場。
8/23・24は全日会場に居る。
8/22・走行なし。
 


「笠岡路上観察研究会発表会」の展示準備  投稿者:えいちゃん  投稿日:2008年 8月24日(日)06時31分3秒
  午後旧郵便局に会場の設営に行った。
8〜9人でわいわい設営していったが、終わったのはちょうど午後5時ごろだった。
8/20・走行なし。
8/21・走行なし。
 


「旧郵便局って?」  投稿者:えいちゃん  投稿日:2008年 8月24日(日)06時28分39秒
  「笠岡路上観察研究会発表会」が近くなったので、職場の何人かの人に見にきてと話した。
会場は旧郵便局だから、と言えば「何所ですか?」
そうだったなあ。
もう郵便局が移転してから数十年経っているなあ、若い人は知らないのが普通だなあと納得した。
8/19・走行なし。
 


マラソンと言えば  投稿者:えいちゃん  投稿日:2008年 8月24日(日)06時27分14秒
  思うに、
この北京五輪の男子マラソンほど期待されないメンバーゆうのも珍しい。
しかし想い出すに、
東京五輪はエースが寺沢で次が君原で、おまけが円谷。
その円谷が銅メタルだった。
今回はおまけばっかしなのでテレビ観戦の気力もでない。
8/18・走行なし。
 


後輩土佐礼子選手は早々と沈没してしまった  投稿者:えいちゃん  投稿日:2008年 8月17日(日)20時08分57秒
  北京オリンピックは特に見たいとか期待する種目はないけど、後輩土佐の女子マラソンだけはテレビ応援せんといけんなあと思っていた。
しかもボニ休暇兼日曜日の午前9時スタート。
後半のねばりが得意の土佐は、早くも前半から遅れ、痛々しい姿の走りになった。
結果リタイアした。
これが勝負の世界。あとは、引退もよし、雪辱戦もよし。
どうなろうと陰ながら応援する、期待させてくれてありがとう。
8/17・走行なし。
 

庭の李の葉っぱにセミの殻がふたつ  投稿者:えいちゃん  投稿日:2008年 8月17日(日)20時06分34秒
  スミチオンをしてラウンドアップをして、ついでに車の洗車をしてワックスして靴も三足洗って、その後でソーメンして食べよう。
と優雅でハードで贅沢な作業をはじめた。
その時、セミの殻を見つけた。二つ。油蝉かクマゼミの大きさ。
ついに、えいちゃんの庭にもセミの幼虫が地下深く住み着いているのかと感慨深く殻を見つめていた。
8/16・走行なし。
 

玉音放送Dえいちゃん城山へ登る  投稿者:えいちゃん  投稿日:2008年 8月16日(土)18時23分7秒
  8月15日の空は晴れた。
それは63年前のあの日の空と同じのように思えた。
12時ちょうど、城山の招魂社で手を合わせよう。
城山を登りその時刻に両手を合わせた。
真昼の城山にはえいちゃん以外、誰もいなかった。
8/14・走行なし。
8/15・走行なし。
 

玉音放送C1945年8月15日満州帝国吉林市  投稿者:えいちゃん  投稿日:2008年 8月16日(土)17時52分13秒
  おば(父の妹)の話・ 在満州吉林市 当時22歳頃・既婚一子あり。

玉音放送は聞いた。
社宅の前にみんな集まって、いっしょにラジオを聞いた。
あれはほんとに天皇の声じゃった。
「おおお〜」いう声だったが、わかったのは『日本が降伏した』ということ。
内容ははっきり聞き取れなかった、だがその意味(降伏・敗戦)だけは聞いてる人、みんなわかった。

日本人は今まで「タイタイ」、大将でおったのが。
そりゃぁみじめなもんで、えいちゃん。
戦争で負けたらもう、社宅へ向かって石は投げるし。
暴動みたいに、だーっと家の中にはいり衣類は取られるし。
談・2002・4・30

8/13・走歩10キロ。
 

玉音放送B昭和20年岡山陸軍病院  投稿者:えいちゃん  投稿日:2008年 8月16日(土)15時17分12秒
  父の話・岡山陸軍病院 当時27歳頃 既婚1・5子あり


ワンワンようたが、
聞き取りにくかったが意味するところはよく分かった。
「日本は負けん、これからじゃ!」と勇ましいのを言うのもいたがすぐ収まった。
『決起する』といっていたのは・・若い・・兵である。(将校でも下士官でもない)
終戦で「ほっと・・した」のが・・ホンネ・・大部分なので、勇ましいことをいうのは不思議でもないがその時点で既に少数意見(というくらい敗戦の状態の現実と、厭戦気分であった)であった。
いさましいのはとても一週間はつづいていない。いってみれば一晩寝ればおしまいの『決起する』であった。
談・2000年09月16日

8/12・走行なし。
 

玉音放送A昭和20年安浦海兵団  投稿者:えいちゃん  投稿日:2008年 8月16日(土)15時01分58秒
  おじ(母の弟)の話・海軍飛行予科練 在安浦 当時16歳頃

(戦争の情報のことは)なんにも分からん。
戦争が負けとるとは思ようならんだ。
そりゃ。
新聞を見るわけでなし、ラジオを聞くわけでなし。外のことは何んにもわからんものお。
負きょうるとは知らなんだ。
飛行機が無いんで、あんまり良ぅない・・・ゆうことは感じょうた、けど。
ラジオを聞いたのは終戦の時だけじゃ。
あの時は聞いた。あれだけは聞いた。
談・2003年3月19日

8/11・走行なし。
 

玉音放送@昭和20年茂平  投稿者:えいちゃん  投稿日:2008年 8月16日(土)14時47分4秒
  母の話・ 在茂平  当時24歳頃 既婚1・5子あり

「重大放送がある」と繰り返し、ラジオがしつきょうた。
家でラジオで聞いた。
もう戦争が負けるんじゃけえ、そりょを言うんじゃろう思うとった。
(茂平みたいな)田舎の人でも、「そりょう言うんじゃ」言ゆうてようた。
じゃけいわかっとった。
(放送の雑音と内容は?)天皇陛下の言うことは今でもぐつぐつ言うて、何を言ようるんかようわからんが。
談・2000・1・30

8/10・大山(夏山)+中蒜山登山
 

終戦のころE光山懸城に入城する  投稿者:えいちゃん  投稿日:2008年 8月16日(土)14時32分26秒
  まだ太平洋戦争(大東亜戦争)がはじまる前のこと。 父の日誌・昭和13年秋・22歳ころ・当時独身。

「雨天の中、こうざんけん城に入城した。
信陽攻略の要所だ。
空爆の跡を見る。高層な健築物は無く、ただ外部の一部一部を残すのみ。
その他は整然として聳える○○堂、そして繁華街は昔をしのばせるおもかげは語っているようだ。
あちらこちらの家陰、木陰に、支邦軍部隊の死体がわれ等の目にはいる。
我等は降りつつ雨の中気合をいれつつ、戦闘の戦果を納めつつ意気洋々と入城したのだった。
思えば徐州出発以来、いかなる雨天に悩まされつつ、悪天候と戦いつつ、あの日この日も休み無く。
血の攻撃、実戦悪夢。
敵の攻撃、悪戦苦闘で、今ようやく、光山懸へ入城するのだ。
その雨につけ、照るにつけ、思うのは故郷のことだ。
朋は、姉妹は如何に。
だがそのような実に恥かしい。
ただ戦闘の束の間にちらつくホンの一瞬だ。
今はこうざんけんに入城する。後6日で我が氏神様の祭典だ。
ありがたき神様のご加護により生き長らえていることを誓って今日を休む。」
1938・9・25(光山懸城内にて)

8/9・走歩10キロ。
大仏さまへ

ワシンは今、建物もそして「ワシン」のカンバンも営業当時と同じです。
ガラス越しに店内を見るのは・・・つらくて出来ません。
 

ワシンの思い出  投稿者:大仏  投稿日:2008年 8月16日(土)09時31分47秒
  えいちゃん こんにちは マラソンの写真ホームページが開かないのでここを見てます。ワシンは昔 和信 ここの社長の渡辺さんに2つの事を高1のとき教わった。1つは、先着した者が、後から来た者より優先権がある。君らは学生で何とかならないかおもうかもしれないがこれが社会である。もう1つは、女性従業員の悪い風聞(民間人の垂れ込み)をきいた時、朝礼時に「李下に冠を正さず 瓜田に靴を入れず 疑われるようなことをするな」私の心に深く刻まれました。  

終戦のころD戦争未亡人の話  投稿者:えいちゃん  投稿日:2008年 8月14日(木)18時48分16秒
  母の話・ 昭和20年後半  当時24歳頃 既婚1・5子あり


同級生は、半分くらいが戦争で未亡人になった。一番真ん中じゃた。(母は大正10年3月生まれ、世代的にはそうであろう)
そのまま(結婚しないで)子供を育てたひと、再婚したひと、それも半々くらい。
(戦死時に)子供がいなかったひとは実家に帰っている。(が、年齢的にも同級生は子供がいた)
戦死の時、下に弟がいればそれといっしょになる、(家を守るとかで)ことがよくあった。
(再婚しないで)子供を育てるのは、「相手の家でそのまま」、「自分の実家に帰り」、のケースが半々くらい。
(実家に帰れる状況、帰れない状況、家族、資産、折り合い、いろいろなものが混ざり。)
大宣の○○さんとこは弟と一緒になった。
青野(母の従兄弟、長兄・次兄が戦死して)では三番目のといっしょにさせようとしたが”ワシャ、ねぃとはいっしょにならん”と児島に行って事業を興した。
(女学校の同級生の)矢掛の○○さんは「今では笑おて話せるが、ホントに、言うにいえん苦労をしてきた。」とゆうとった。
▲▲さんは今大事にされとる。そりゃ、そうじゃ。生きとるだけでなんぼでも金が入る。(▲▲さんは戦争未亡人で、子は二人の姉妹で姉の”くにちゃん”は僕ともよく遊んでいたが中学へ行く頃赤痢かなんかで突然病死した)
(母の実家の隣りの家、出征してすぐ、ニューギニア戦線に着く前に船で戦死した。おばさんは女ひとつで一女・ニ男を育てていた)(おばさんは戦死の時、実家の野々浜に帰る話はなかったのか?と聞くと)無い。野々浜には職業軍人で少尉か中尉になっていたのが戦死していた。それに賀山におったほうが資産がある。
談・2001年6月3日

戦争未亡人が生きる話はすさまじい。そして今は消えようとしている。

8/8・走行なし。
 


終戦のころC野呂山の高射砲  投稿者:えいちゃん  投稿日:2008年 8月14日(木)18時27分23秒
  おじ(母の弟)の話・昭和20年7月頃 海軍飛行予科練 在安浦 当時16歳頃

安浦では勉強はない、日和じゃったら毎日野呂山へ行く。
このくらい(電信柱程度)の杉丸太を、7メートルくらいかのう。
灰色の色を塗って。
それを山のうえまで持っていく。
着いたら草を刈って。(周辺を)丸ぁるく刈る。
そしたら丸太をこういう角度に向けて・・・(笑い)・・高射砲じゃ。
ワシはもう兵長じゃった。帽子に線が1本はいっとった。
召集兵が引っ張ったり、押したり。もう、親のような年齢の35や40の人じゃった。
坂を野呂山の頂上まであがりょうたんじゃ。
談・2003年3月19日

追記・・えいちゃんは、これが日本の『戦争遺跡』の典型する話しと思っている。

8/7・佐柳島・高見島へ行った。
 

終戦のころB学童疎開  投稿者:えいちゃん  投稿日:2008年 8月14日(木)18時13分25秒
  あに(姉の夫)の話・昭和19・20年頃 在笠岡市篠坂 当時8・9歳 陶山国民学校生

疎開したのは集団疎開でなく、縁故の疎開。福山では集団疎開いうんはなかった。クラスでは自分ひとり。2年間ほど疎開しとった。
篠坂の親戚に泊まっていた。
その親戚にはもう一人親類のひとがきとった。
ビックリしたのは。
二人掛けの椅子に3人。
多分陶山小には多くのそういう(疎開の)人がきとったんじゃろう思う。
教室はぎゅうぎゅう詰めじゃった。
有田から篠坂まで山を二つ越えて帰りょうた。
最初の日。行きは母に連れていってもろうた。帰りは自分ひとり。早く家まで帰ろうと走って帰っていたら、途中で道が二つに分かれるところがあり。
まいった。もし間違えたら帰れんようになる。
聞こう思うても誰もおらん、山の中じゃし。
もう、えい、右に回れ思うて行ったら家に帰れた。
談・2002年5月3日

8/6・走行なし。
 


終戦のころA手に毛がはえたロシア人  投稿者:えいちゃん  投稿日:2008年 8月14日(木)18時02分33秒
  おば(父の妹)の話・昭和20年後半 在満州吉林市 当時22歳頃・既婚一子あり。

戦争に負けたらロシア人が馬に乗ってうわぁーと、やってきた。
「一日中出るな。出ると、絶対殺される。」ゆうて、ひとところにおって。
それで窓越しに見ると。
大きな男で、手には指にも毛がむじゃむじゃ生えとった。
顔は真赤。
赤い、そしておおきい。
私らは”ろぼうず”ようた。体格がおおきくて、真赤で、手もおおきくて、手に毛もはえて・・・・怖かった。
絶対殺される思ようた。
出るな言うても、どうせ殺される。そう言ぅた。
談2002・4・30

8/5・走行なし。
 


終戦のころ@暑い夏がつづく  投稿者:えいちゃん  投稿日:2008年 8月14日(木)17時56分19秒
  甲子園では高校野球が暑く、
北京ではオリンピックが熱く、
そして今年の笠岡の夏はとびきり暑い日がつづいている。
えいちゃんは微力ながらも、
昭和20年の暑い夏の日を記録していきたいと思っている。
8/4・走行なし。
 


ワシンはおわってしまった  投稿者:えいちゃん  投稿日:2008年 8月 4日(月)06時34分5秒
  長く笠岡市民に愛されていたワシンが店じまいをしてしまった。
笠岡の駅前ではクラヤというスーパーがあったり、火事で焼けたサンエーというスーパーもあった。けれどワシンはずっと今日まで営業をつづけてきた。
笠岡の大事なものが一つ消えた感じがする。
8/3・走行なし。
 


十一番町緑道公園から見る笠岡花火大会  投稿者:えいちゃん  投稿日:2008年 8月 4日(月)06時32分54秒
  笠岡の花火はきれいだった。
特に十一番町緑道公園から見る花火は最高だった。
(最後のところは)宮島の水中花火に負けないほどきれいだった。
8/2・走行なし。
8/1・走行なし。
 




         



2008年8月22日  2009年3月17日