機関士のころ・大津野村の枝広城



21年6月に(中国から)帰り、大門から岡山に行きょうた。

ワシャうちのおばあさん(奥様と)と二人で大門にいた。


岡山に行くには通勤で前の晩からいとらにゃいけん。


その時分戻る時ゃ。

「おおい、徐行せえ。
笠岡を出たら徐行すんでえ!」

「よーし、わかった。」


トンネルを出たら草があって広いとこがる。
歩くようなスピードじゃ、そこで下りょうた。

乗るのは乗れなんだな、危のうて。
下りるのはかんたんじゃった。


夜中の2時・3時にゃそうやって親父のとこへ泊まりょうた。
魚は食えるし、そうせんと次の日にしか帰れなんだし。


これは「大津野村史」ゆうて去年できた本じゃ。


(本を開き)これが枝広城じゃ。
駅の真北の山に枝広城ゆう山城があったんじゃ。

これが枝広のはじまりじゃ。

今のハピータウンのうえじゃ。
荒神さんがあって、そこへ逃げていった。
負けてそこに幕を張っとった。
それで「幕山」というようになった。

大門の駅の正面の山からそこへ逃げとった。

ちょうど、ウチの家はその山の真下にあった。

山には洞窟があった。
フタをしとるんじゃが、
親父が「穴へ入ってみぃ、何か出るかもわからんど。」ようてようた。


この本は散髪屋をしょうた人がくれたんじゃ。

大東亜戦争後は給料が安くなったんと、

差がなくなった。
「生活給」ゆうことになった。



機関士は夜昼がないのでたいぎゅうなった。
機関紙は夜昼なかろう、
それで辞めた。



国鉄を辞め映画は25年から親父といっしょにしだした。













金浦座ものがたり



作成・2005年7月24日  追加更新・2005年7月30日