大津野飛行場の歴史
昭和30年代の頃だが、祖母はよく「津之下の飛行場ができたら茂平も町になる言わりょうた」と話していた。
結果は大津野も茂平も町になることはなかった。
大門町誌「大津野のあゆみ」より
昭和18年福山高等航空機乗員養成所開所。飛行機が到着。618名入所。
福山海軍航空隊所属員数・・・士官121、兵員1.889、事務員24、雇員378、合計2.412人。
当時の大津野村人口約3.000人。
昭和20年4/18福山で最初の空襲警戒警報発令、以後終戦まで93回、空襲警報28回。
8/15終戦。
福山海軍航空隊も敗戦とともに解散し、代って昭和21年3月英連邦軍オーストラリア歩兵隊65大隊240名が進駐した。
航空隊跡地はGHQが塩田化することに決定したが、航空隊兵舎は駐留軍宿舎に転用された。
後に米軍も駐留したが、進駐の期間は3年間であった。
昭和24年6月進駐軍跡地に広島大学水畜産学部が設置され、練習船「豊潮丸」が大津野湾沖に係留された。
昭和25年警察予備隊の第823救急隊が駐屯した。広島大学と同居することになった。
水畜産学部はキャンパスが狭くなり、後に市内御幸町へ広大な敷地を求めて移転した。
広大移転後、昭和28年自衛隊病院が開設され、牛の首もそのころには広大な敷地ができあがっていたが、やや閑散とする状態となっていた。
2015年09月09日 | 昭和21年〜25年