神島開墾団

神島のIさん(終戦時少学5年)の話・2006.3.10



(昭和40・50年代。神島寺間に「みたにつたまつ氏」という笠岡市議会議員がいた。氏は市議会副議長を務めたあと引退した。氏は終戦後「神島開墾団」の団長をされていた。)

福浦からうえにあがったとこ、栂の丸に行く道にあった。
10人ばあおった。
周兵衛庵にあがる道、あのへんにも5軒くらいあった。
復員でかえった人が家族難・食料難で行った。
道をつくる、まず日当で食える。
みかんは皮が硬い、やっぱり土地が悪い。
いま。
カーブしたとこの一軒ある人はまだやっとる。
(開墾でなく)別荘でたてた人の家もある。
職がないので臨時のお巡りさんいう時がり、お巡りさんの家もある。
電機・水道を引いて、
住めるゆうだけの家をつくっとる。



戦後の食料難の時
(戦後の食料難の時)靴をもってきたり、着るものを持ってきとった。
交換するのに。
それでも、
(見崎も)それどころじゃねえ、食料難じゃった。
(親といっしょに漁をして)浜へ船がかえると、ざーーとみんな寄ってきょうた。他所のもんにまでやられん。
じゃこ。や、ねぷと、
あんなもんまで・・・。
つくれー、つうれー、ゆうて。さつまいもでも味じゃあなく、おおけえ、これがええ。
芋を買う人も来とった。
福山の飴工場。福山の港のしまったとこにある
そこからは工場のニオイがとどく。ええにおいが届くんじゃ。