60年目の手術


作者記
今年の最大の出来事、父は笠岡市民病院で手術を受けた。
このページは次男である僕の日記を転記する。



市民病院の前 投稿者:名誉会長  投稿日: 7月24日(木)08時08分45秒

走って通勤。
市民病院の前で信号待ち、そして横断。
約1ヶ月半、毎朝・毎晩病院にたちよりしていたが父はすこし前退院した。
日曜日に実家に行くと特注ベッドで気分よくテレビをみていた。


7/17・内祝父の退院日 投稿者:えいちゃん  投稿日: 7月18日(金)20時47分54秒

父の手術後。退院までに3ヶ月程度は必要だな、と思っていた。
経過は良好であっても80なかばの父にとって手術の副作用がおおきかった。
いくらかの、あるいはある程度の「ボケを前提に」の父との会話になってしまった。
過去10年、父は市民病院が別荘ともいえるほど入院しずめだった。
退院後、家にいることが継続してできるのを祈るのみ。
僕たち兄弟3人は来年の父の米寿を「家で元気に」、祝うことを楽しみにしている。


父の退院の日がきまった 投稿者:えいちゃん  投稿日: 7月14日(月)06時02分28秒

今週の木曜日(7/17)。身体に変化がなければ父は退院することになった。
手術前に比べお腹は良くなった(悪いところを7割切った、3割は残っている)。逆に頭のほうはいくらか衰えた。しょうがないか。
介護保健4級認定。家に帰りしょぼしょば歩けば病院にいるよりは刺激になると思う。

腹はそうでもないが頭が 投稿者:えいちゃん  投稿日: 7月 6日(日)12時50分41秒

11時ごろ走って市民病院へ行った。車を昨日から留めていたのと父の見舞を兼ねて。
ソーメンを今食べたがまだ頭が痛い、すっきりしない。
これからシャワーでもして、むかえ酒しながら本読みながら昼寝をしようっと。


死者の名を呼ぶ 投稿者:えいちゃん  投稿日: 6月20日(金)20時26分42秒

父の身体から昨日、完全にパイプが外された。
最初の頃、鼻から腹からわからないくらいの管が身体に埋められていた。点滴は24時間。
昨日最後の管が外され、点滴のほうも1回3時間くらいか。それだけになった。
会社の帰り病室に行くと「おいしい。」と言って夕食を食べていた。出された半分以下しか食べないが「おいしい。」と感じるところまで回復していきた。
食べたあと横になった父はしばらくして「おばあちゃんは?」。それは母のことではなくもう25年も前に亡くなった祖母のことか?それ以前の曾祖母のことか?「来とったんじゃあないんか?」
本気で言う父に、僕も本気で取り組まなくてはいけない。

茂木を食べた 投稿者:えいちゃん  投稿日: 6月18日(水)06時37分33秒

昨夜、父の病室で母から「茂木が熟れたのでもってきている。」と渡された。
茂平の果物は田植え時の”しろみて”で茂木を食べ、それから秋のイチジクで終わるまで毎日のように収穫・出荷がつづいていた。枇杷ではじまり、桃、すいか、なしうり、ぶどう、いちじく。
家の収入は7・8・9・10月のみ、残り8ヶ月は無収入に近かった。そういうことで小鳥でいえば初音、枇杷の茂木はめでたい果物だった。
いつからか果物を買って食べるようになったが、枇杷とイチジクだけは未だ買ったことがない。
走行なし。

6/10・わりと痛がる父 投稿者:えいちゃん  投稿日: 6月11日(水)06時24分05秒

朝と晩、市民病院に寄った。
咽から食べ物をいれるようになって、今度は腹を痛がることが多くなった。
「痛い!痛い!」という。6/10のレントゲン検査ではいちおう順調ということだったが、とにかく回復には長くかかりそうだ。腹の回復だけでなく、脳のほうも。

6/7・だいたいで言えば 投稿者:えいちゃん  投稿日: 6月 8日(日)19時43分46秒

父は回復しているように思える、そう感じる。
母にしてみればものたりない、心配、不安がある。ベッドの下で毎日寝泊りする80代の母は不満があるよう、それは理解できるが。
あえて母に言わなければいけないと思い・・・父は高齢であること、回復はしていること、寝ていればいくらかボケる忘れること・・それを前提にみつめるよう、に言った。

車イスで歩く父 投稿者:えいちゃん  投稿日: 6月 6日(金)21時25分44秒

帰宅途中で市民病院へ寄る。兄夫婦と会う。兄嫁が「今、車イスで廊下をまわっているから。」
市民病院2fの廊下で母が車椅子を押していた。ここまで回復はしているがどこまで復帰できるのか?父の表情・言葉からみてまだまだわからない。

6/5・「桃の袋掛けも・・・。」 投稿者:えいちゃん  投稿日: 6月 6日(金)21時18分01秒

「食べりょうだけじゃけど、桃の袋掛をせにゃあいけん。」と母が言う。
桃は実家にとっても茂平にとっても代表する果物だった。僕の3兄弟はそれで学校へ行くことができたともいえる。
毎夜父のベッドの下に寝る母にとり百姓仕事は、もうどうにもならいないほど大きいものになっている。

朝の目覚めが遅く 投稿者:えいちゃん  投稿日: 6月 4日(水)21時27分35秒

今日は走る時間がなかった。
市民病院の父は昨日はじめて少しだけ歩行訓練をしたそうだ、どうにか回復にむかっているような感じがして安堵の気持ちになってきた。

「早ぅ家に戻さにゃあ。」 投稿者:名誉会長  投稿日: 6月 3日(火)08時00分46秒

今朝の父は半分起きたような寝ているような。
手には腕時計をはめていた。昨日はTVもすこし見たらしい。
母が「早ぅ家に戻さにゃあ。」と言っていた、それがいつの日になるのかはわからないが、そういう話しが出るような状態に落ち着いてきているようだ。

手術から1週間たった 投稿者:名誉会長  投稿日: 6月 2日(月)07時54分51秒

今朝の父はおとなしかった。
昨日は日中は良かったが夜、上半身起き上がったそうだ。手術後はじめて。それで例によってお腹のガーゼを全部はぎとり、管を抜く1歩手前になり、30分かけて元通りにしたそうだ。

おとなしく寝ていたが 投稿者:えいちゃん  投稿日: 6月 1日(日)20時50分24秒

見舞と、その後よおすなの「おしぐらんこ」を見ようと。
昼前に家を出て市民病院に走る。西本町でポスターを見た、おしぐらんこは10:00〜12:00とある、がっくり。
病院に行くと半分目をあけた父は「えいちゃんか」と言って寝た。姪によれば「昨夜は、おばあちゃんが一睡もできなかった(ほど動いた)ので今日は朝から寝むたいんじゃろう。」とのことだった。

5/31・父の隣人 投稿者:えいちゃん  投稿日: 6月 1日(日)20時42分27秒

父の隣のベッドにはひたすら寝たままの人がいる。
90才を越えている。寝たまま、起きない、目を覚まさない、とにかく呼吸しながら寝ている。
声・音、それはいっさいなし。そういう人(老女)との二人部屋。

父の闘い 投稿者:名誉会長  投稿日: 5月30日(金)07時54分00秒

昨夜も今朝も父の動きはすこしおとなしくなった。
手の動き、脚の動き、あれは父の闘いのように感じる。
夜は母、日中は母・義姉を主に姉と妻が付き添っている。
昨日は賀山・岩倉・小平井に見舞いにきてくれたという。

熱がでそうになった 投稿者:えいちゃん  投稿日: 5月29日(木)05時53分40秒

退社後、市民病院に行く。
ベッドの父は手が常に動き、ベッドの手すり、更には命綱になっている点滴などの管、手術した腹をあらあらしく持つ。見ていて熱がでそうになった。二度目の睡眠薬でやっと寝た。

今朝も晩も 投稿者:えいちゃん  投稿日: 5月28日(水)06時08分24秒

しばらくの間、市民病院へ寄っての行き来。
父が健在であるあいだは顔だけでもだすようにしとこ。
義姉の心配「おかあさんが倒れたら・・。」そこまで看病できない。80を越えた母はもう1ケ月くらい病院で寝泊りしている。更にやせてしまった。


父の手術は4時間半ほどかかった 投稿者:えいちゃん  投稿日: 5月27日(火)06時00分30秒

午後会社を休み市民病院に行った。
母、おば(父の妹)、姉夫婦、兄夫婦、そして僕の夫婦の8人。全員笠岡市在。
手術は長かった。結婚前の父が岡山陸軍病院で手術、さらに東京の陸軍病院での再手術、それに立ち会ったおばの話しは初めて聞いたとこがあった。今回の手術はその部分を切り取るもの。
父の年齢が年齢だけに手術の終了をまつ8人は、手術室から父が「戻れない」覚悟もそれぞれあったが午後6時頃出てきた。

春日神社へ走る 投稿者:名誉会長  投稿日: 5月26日(月)08時00分53秒

小雨になるのを待ってから春日神社へ走った。
賽銭だけをポケットにいれて。


訂正・「聖地参拝」の地は、どうも「宮城」ではなくて「伊勢神宮」のよう。

父は明日、手術の日なので 投稿者:えいちゃん  投稿日: 5月25日(日)20時49分22秒

昼前に市民病院に行った。
小平井のおばさんも来ていた。
点滴が効いたのか「頭の毛が黒くなった。」と喜んでいた、確かに少ない髪の毛だがいくらか黒くなっている。

「聖地参拝」 投稿者:えいちゃん  投稿日: 5月24日(土)06時49分21秒

キリスト教や回教、それに政治的にはユダヤ教。「聖地」という言葉はよくでてくる。
昨日、茂平のお宮の賽銭箱の右手上には「聖地参拝」のおおきな掛け物があった。みると「皇紀二千六百年・小田郡城見村・参拝者名簿」で、村からおよそ30人程の名前が書かれている。組内から一名行っているのが想定される。
「帝都」の「宮城」は「聖地」でもあったんだな、新発見。
父はこの2600年を東京で傷痍軍人で迎えた。
今日は春日神社でぱんぱんした。

茂平八幡様へ祈る 投稿者:名誉会長  投稿日: 5月23日(金)07時42分49秒

昔。
父のために茂平八幡様に近所の人たちが祈願した。
徐州・漢口戦を経て内地、岡山連隊へ帰ったがまもなく大病。東京の陸軍病院へ運ばれた。
近所の人たちはお宮の灯篭に火を灯し一晩中祈願した「この火が消えたらダメかもしれんが、消えなかったら助かる。」、そう話していたらしい。
火は消えず、父は来年米寿になる。
今朝は早く家を出て茂平八幡様に祈願した。63・64年前の茂平の人たちに感謝しながら。




2003年12月30日