天皇の八重山行幸①
現人神(あらひとがみ)を迎えるに、時の行政はどのように対応したのだろうか?
「金光町史本編」より転記する。
昭和5年10月6日付けの山陽新報は次のように伝えている。
「今秋の特別大演習を迎える日の近づくにつれ、演習関係地として浅口郡に就いては、既に香坂県知事を始め県警察部では再三に亘って来郡し、就中金光町は町内の交通安全並びに町の美観から駅より金光教本部に至る間電灯を点じ、また金光教本部では万一の防火、其の他を未然に防ぎ、万一の雑騒を防ぐために自警消防組を組織し、ガソリポンプの購入を樹て、更に兵員通過の各町村に至っては道路の改修に努め交通支障の立木等も伐採する為め当路の了解を求めて居る等千載一遇の光栄に浴する郡内は上下を挙げて誠意之等の準備に忙殺されている。
当時の金光町にとっては、天皇の「八重山御野立所」への「行幸」は「無上ノ光栄ニ欲スルヲ持ッテ極ニ達シ」たのであり、全町を挙げて奉迎するところとなった。
昭和天皇は11月15日午前10時15分、金光駅に着かれて直ちに八重山へ行幸された。
当日町は御影橋付近に奉排所を設けて諸団体の代表が多数出迎え奉排した。そうして午前11時55分に金光駅を発たれ岡山市の大本営に向かわれた。
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天皇の八重山行幸②
天皇の金光町滞在は1時間40分、
大元帥として戦を統監したのは1時間弱と推測される。
11月という季節ではあるが、当時の県南の果物は梨が盛んであったことが伺える。
「金光町史本編」より転記する。
この時天皇は、金光町の特産品の一つである麦稈真田の組合事務所に侍従を差遣わされ、
また、
町内の高齢者(60才以上)、傷痍軍人、孝子、軍人遺族に紋章付きの御菓子が下賜された。
いっぽう、
町内からは金光町果物組合が「梨晩三吉」を、佐方産業組合が鶏卵を献上した。
また、八重山の御野立所跡の処理については、永久に「御盛徳ヲ偲」ぶ目的で記念碑建立の計画を立て、すでに二畝余りの土地を買い入れ準備を始めた。
このようにして、昭和6年4月29日、八重山山頂の記念碑の除幕式が行われた。
当日は、県知事代理、県会議員、玉島警察署長、郡内町村長、小中学校長、軍人会長、教育会長、婦人会長、金光教幹部、町内名誉職等200余名が出席した。
この建碑費は郡内小中学校生徒職員、町村民の寄付によった。(山陽新報昭和7年5月1日)
なお、昭和16年12月この土地は、八重山の渡辺〇〇氏から町に寄付された。
2017年01月30日 | 昭和元年~10年