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空襲下の御真影


岡山空襲と福山空襲、生死の際で、写真(ご真影)はどのように扱われただろうか?


空襲下の御真影(ごしんえい)①岡山空襲・深柢国民学校

火事や地震や災害の時、人は(人に限らず生き物すべて)真っ先に逃げ出すものだが、
学校にある「ご真影」は人の命よりも大切なものであった。
アメリカ軍の日本の都市空襲は夜間がほとんどであったため、
逃げ惑う児童の生命を無視して、写真を大事に抱きかかえる校長先生、という汚点を歴史に刻むことから免れる事ができた。

それに、震災から守るために建てられた奉安殿は
なぜ空襲に弱かったのだろう。締まらない話だ。

「岡山県教育史 続編」より転記する。


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空襲下の学校で当時、最も憂慮されたのは、各学校に奉安してあるご真影の安否であった。
県では、この日のあることを予想して、6月24日付けの岡山県内政部長名で、非常の場合には市内中学校は閑谷中学校へ、岡山市内の国民学校は御津郡屋上国民学校へ奉還するよう指示していた。
しかし準備中に空襲を受け、各学校宿直教員が、猛火の中をそれぞれ近郊の安全な学校へ奉還した。

空襲時の悲壮な状況を、市の中心部にあって最も災害のひどかった深柢(しんけい)国民学校についてみる。

6月28日、空襲は熾烈になりつつあった。翌29日未明の空襲、数発の焼夷弾で全校舎は一瞬炎に包まれ、運動場も油脂の飛沫で一面火の海と化していた。
学校の御真影は当日の宿直員井上訓導がガッシリ背負った。
勅語謄本と持ちにくい市役所の御真影箱は小堀・近藤両訓導が交替で持つことにした。
防空壕からいっせいに飛び出して西門に走った。
西も東も燃えている。南だ、4人一丸になって駈けた。
前方の見通しがきかない。煙の中を眼をつむって駈けた。
防火用の水で喉をうるおした。前も横も焼夷弾が落ちている。
道路べりに腰を落としてすすり泣く娘、息絶えた老人にすがって泣く家族、幼児を抱いて避難する婦人。
ふっと家族を思った。空襲は止んだ。


午前6時最後に校庭の一遇に立つ相撲場が引火類焼して、僅かに奉安殿を唯一つ残したのみである。
敵機襲来と同時に校長はじめ職員多数駆けつけたが、市の中心部に位する本校は下す策もなく、焼け落ちるのを告別するかの如く直立していた。
やがて、雨になった。






御真影を守る小学生


校長先生は児童の命を守ることよりも、写真1枚無事の方が重大任務であった時代がある。
では実際に空襲の際、どのような行動をとったのであろうか?

下記は、深安郡引野町の引野小学校の事例。
被災から守るため奉安殿はコンクリート造りであったが、写真は疎開していた。
疎開から戦災まで4ヶ月間あるが児童の当番は継続し、
校長先生、他の先生は駆けつけず生徒だけが駆けつけた。

先生にとって、生徒の生命は虫けら同然だったようだ。


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「引野町誌」より転記する



これは「引野町誌」に長くその心根(こころね)を書き残さねばならぬと思われることがある。

高等科1年生であったF君とS君は警戒警報が発せられると学校へ向けて一目散に走り出していた。
いざという時のために御真影奉安殿の防護を命ぜられていたからである。家から500mも駆けだしたところ突然閃光がして大地が照らしだされ、次の瞬間立ち昇る真紅の火焔、「宇山がやられたぞ」という間もなく「グワッ、ザーザー」という音がして無数の火焔が降り注いできた。
思わず身を伏せ、一瞬気を失ったがまた駆け出し、燃え上がっている無数の焼夷弾の火柱を見ながら学校を目指して走ったが、学校は既に火の海であった。

後日分かったことであるが、校舎から離れた場所にあった奉安殿は被災を免れ、御真影は4月4日に竹尋国民学校に疎開されていたという。






児童の生命


学校で事故や事件が発生した場合、
教員が真っ先に行動するのは“児童の安全確保”であるが、・・・・・ある時代にはそれよりもっと大切なものがあった。

福山・岡山はじめ空襲は夜が多かったが、もし日中の授業中に遭遇していたら
校長先生は児童や教員を投げ捨てて一人、奉安殿に向かったのだろうか?(後述を素直に読めば、どうもそのようだ)


それにしても、この女子教員と市史編集者はいったい、何をいいたかったのだろう?



以下、
「笠岡市史3巻」より転記する。


皇国民の育成を目的をする国民学校では、御真影や教育勅語を保管する奉安殿が鉄筋コンクリートなど燃えにくい構造でできていた。
昭和20年6月、笠岡町女子国民学校の訓導であった女子教員の回想を記述しておく。

「ある日の深夜、空襲警報のサイレンが鳴り響いた。急いで学校にかけつけてみると、校長先生がいつでも御真影を袋に入れて持ち出せるように待機しているのを見て御真影や勅語の大切さ、身をもって守ろうとする校長先生の姿に胸のつぶれるような思いがいたしました」






2017年02月02日 | 昭和20年