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わたしは倉敷航空隊の予科練だった
倉敷予科練と言えば終戦間近に出来て、敗戦と共に解消された。その期間があまりに短期間であり、ローカル放送・新聞・誌に載ることも極々稀となっている。
「高梁川56号」に「わたしは倉敷航空隊の予科練だった」という記事があるので転載させてもらう。
しばしばいわれる「予科練」でなく「どかれん」の実態であったろう。
以下、高梁川56号。
倉敷海軍航空隊は、昭和19年11月1日に岡山県児島郡福田村松江に開隊された。
兵員は、
飛行予科練習生 21期 500名
飛行予科練習生 22期 500名
航空隊要員(一般兵員) 700名。※管理人記・予科練生は乙種。
当時、倉敷郊外の水島地区には三菱水島航空機製作所を中心として、「水島軍都整備計画」という壮大な計画が海軍の手で進められていた。
急ごしらえの航空隊はいかにも貧相だった。練兵場(飛行場)はバラストを敷き詰めただけで、これが新設の航空隊なのかとすっかり気落ちしてしまった。
昭和20年3月、学生・練習生の空中教育は一時中止となった。これにより予科練教育は事実上終わりとなった。
翌日から王島山に防空壕を掘ることとなった。
4月になって松山航空隊から2600名が転属入隊し倉敷空の予科練は4500名になった。
山林開墾隊、防空陣地構築隊などのほか、農作業手伝い、軍需工場の構内作業手伝い、工場疎開手伝いなどにも駆りだされた。
6月1日予科練教育は正式に中止となった。
全国数万の予科練生は練度によって、次のような本土決戦配置につくこととなった。
回天特攻隊
こう龍特攻隊
海龍特攻隊
震洋特攻隊
伏龍特攻隊
水際特攻隊
陸戦隊
防空隊
陣地構築隊
雑作業隊
いままで各期ごとになっていた分隊編成が解かれ全期混成の戦闘編成になった。
わたしは抜根隊になり、チーフとして4名を引率して吉備高原の奥深い山村に松根油工場の手伝い作業員として派遣された。
その後、7月15日佐伯空配置になり水際特攻の訓練を受けていて終戦となった。
「わたしは倉敷航空隊の予科練だった」②
以下、高梁川56号より転記。
「水島軍都」に対する空襲が必至の見込みとなったので、周辺地区に高射砲陣地及び20mm機銃陣地を配置する事になった。
呉鎮守府からきた砲術科要員の指導のもと急ピッチで防空陣地構築が進められた。
6月1日、予科練教育が正式に中止になると300~400人がこの水島防空隊に編入された。
編成は次の通りである。
王島砲台(王島山山頂) 8インチ砲 5門
中畝砲台 12.7インチ高角砲 3基
連島砲台(箆取山) 8インチ砲 5門
玉島砲台(狐島) 12.7インチ高角砲 3基
機銃座(倉敷空内) 飛行機搭載用20mm機銃 10基
機銃座(三菱滑走路ふきん) 飛行機搭載用20mm機銃 基数不明
また定員分隊では「農耕班」を結成して自給自足体制を備えていく事もしている。
隊内の未整地で食用に牛を飼い、野菜や稲を植え、竹竿をたててカボチャをならせ、甘藷やともろこしも植えた。
残留予科練の陸戦隊は三菱航空機製作所の雑作業や、掩体壕の構築、物資の疎開、工場の移転手伝い、塩田開発、男子のいない農家への手伝い、といった隊外作業に派遣されていた。
「わたしは倉敷航空隊の予科練だった」③水島空襲の時
空襲警報は東京も岡山も広島も無く、攻撃を受けた。
水島にもなかったようだ。当日は日曜日で戦死者は少なかったが、三菱航空機工場は壊滅した。
昭和20年6月22日午前8時すぎ、110機のB29により工場爆撃を受けた。
以下、高梁川56号より転記。
この時の様子を王島山砲台で砲長を務めたK22期の話を紹介する。
聞きなれたB29の爆音が聞こえてきた。
東の方からまっすぐ進行してくるB29の大編隊が目に入った。
空襲だ!
と叫んだがとっさにどうしていいか分からない。5門の高射砲は上を向いたままだ。
「射てぇ!」
先任下士官が号令をかけたが、砲の操作もとっさにできない。
先頭機の機腹から黒いものがぱらぱらと数個落ちた。
一発が倉敷空の兵舎を直撃した。一瞬、兵舎が空中へ吹っ飛ぶのが見えた。
すぐに爆発音と爆風が襲ってきた。
そのとき、きーーーんという爆音が聞こえグラマン戦闘機が1機、山頂よりずっと低い線から砲台めがけて撃ちあげてくる。
夢中で「射て、射てぇ!」と叫びながら高射砲を発射した。だが次の瞬間にはブラマン機銃がばりばりばりと砲台陣地をないで走った。
みんなわっと物陰や壕に飛び込んだ。もう一度来たら逃れようがない。だが敵機はそのまま飛び去った。
小型機は動きが早いから高射砲では照準できない。
グラマンがいなくなったので水島空襲中のB29めがけて発射したが、残念無念届かない。
B29のはるか下のほうで爆煙の花を開くだけだ。
射ちかた止めにして総員退避になった。
王島山山頂から見ると三菱工場からは黒煙が天に立ちのぼり、附属滑走路では出来たばかりの一式攻撃機数機が炎に包まれていた。
ト
「わたしは倉敷航空隊の予科練だった」④水島空襲以降
震洋特攻隊要員着隊
6月29日と7月7日、呉鎮守府直轄の「水中水上特攻訓練基地」となった倉敷空に震洋特攻隊に選抜された甲14期500名が宇和島空と小冨士空から着隊してきた。
しかし訓練設備が整わないため特攻訓練は何一つできないまま終戦を迎えたようだった。
抜根隊
わたしは抜根隊編成になり、22期、23期生4名を引率して岡山県吉備郡福谷村に派遣になった。
松根油とは、松の根っこのヤニから航空燃料を作ることである。
中国地方5県の松根油工場には、すべて倉敷空予科練が派遣された。
1チーム5~10人くらいで、推定1500人が投入された。
わたしは7月10日倉敷空に戻り、佐伯空で両手に爆雷をもって上陸してくる敵戦車に飛び込む訓練を受けていて終戦になり、9月1日付けで二等飛行兵曹に進級して予備役編入になった。
9月18日、800余円の退職金をもらって復員した。
なお倉敷空は8月25日解隊式が行われ、約10ヶ月の短い幕を閉じた。
2015年09月12日 | 昭和20年