青い目の人形 笠岡の「青い目の人形」の運命は?
昭和2年、日米親善のため12.000体の“青い目をしたお人形“が日本に届いた。
そのうち230体が岡山県の学校に配られた。
以前父と母に、青い目の人形配布の事を聞くと知らない・来ていないという返答だった。配布時期と両親の小学時代はほぼ重なる。
当時の岡山県の市町村数は400くらいと思える、単純に言えば昭和30年頃の市町村区域に人形一つ程度と予想される。
笠岡小学校100年史によれば、
「昭和2年5月12日 アメリカ人形展覧会開催(女子校)」と記載されている。
人形を贈られた学校は何処も盛大な展覧会・お披露目の儀式をしていたようだ。
それから70年後の調査によれば、98%が破棄されていた。
見つかったのは約300体。
(日本から返礼に送った「黒い目の人形」は、ほぼ全数がアメリカで保存されていた)
「青い目の人形」は、敵国の憎い人形となり。
昭和18・毎日新聞
仮面の親善使、青い眼をした人形 憎い敵だ許さんぞ
昭和18・読売新聞
米英撃滅敵愾心昂揚のため、アメリカ人形を焼棄
という風潮の中で、
焼かれたり
竹槍で突かれたり
海へ棄てられたりした。
笠岡女子学校の「青い目の人形」は、どのようにして何時の時、消えたのだろうか?
悲しい物語がありそうだ。
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貧しい日本人が「お人形」を見るのは絵本の中で、という時代が昭和30年ごろまでつづいた。それまでの日本の子供は、町のおもちゃ屋のウインドウで本物の人形を見るのが精いっぱい。
大正の終わりから昭和の始めに、アメリカから「青い目の人形」が贈られた。
野口雨情の歌でも有名な日米親善の人形が全国の学校に配られた。
父や母の時代と重なるので聞いてみたが、両親とも見た事はないという。
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井原市史(資料編)から転記する。
「青い目をしたお人形歓迎会」
昭和2年5月10日 中備時報
後月郡教育会の主催にて、来る11.12日井原小学校付属幼稚園に於いて開催することになった。
お人形の数は二百余もありて、園内に陳列し一大異彩を放つ筈である。
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管理人の思い込みで、贈られたのはすべて小学校と思っていたが
井原では幼稚園、他県では女学校にも配られている。
配布数は、およそ12.000体
岡山県には、238体、うち現存3体。
戦時中は
「青い目をした人形 憎い敵だ 許さんぞ」(毎日新聞)と
児童の前で竹やりで射抜かれ、処分された人形も多い。
2017年01月10日 | 昭和元年~10年