その後の叔父

おじは興譲館の出身なのか?卒業なのか?不明であったが「卒業生」であることはわかった。

卒業後西江原の役場に勤務し恩師の世話で玉島に養子に行った。
玉島の家は農家で、長いこと主に井草と米と桃を作っていた。

今は桃と葡萄が主体で「東北から沖縄までファックスで注文が毎年くる、それで(百姓を)止められんのじゃ。」
と、固定客というかフアンに毎年宅急便で送っている。

現在夫婦二人暮らし。
娘二人は、長女が神奈川で二男の母。次女が水島でニ女の母。


母の証言・2000・6・17(終戦時兄弟はどのようにしていたかを聞いたときの話)

予科練で松山にいた。
帰ってからは西江原の役場に勤めた。おじいさんが農学校(岡大・農学部)へいけ。入れるから、というとったが本人がどうしても行かず養子に行った。



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2003年3月22日