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人間魚雷(第15期・清水)

 6月15日付けで甲種飛行予科練習生(15期)の課程を終えた私たちには

飛行搭乗員として訓練を受ける飛練もなくなり、搭乗員として空を飛ぶ夢は完

全に閉ざされたのである。

 

 私が水上特攻隊に志願したのはこうした情勢の6月である。

 私の配属になった第15突撃隊(嵐部隊)は、迫り来る米軍の本土上陸を阻

止するために、特攻船「震洋」をもって敵艦に体当たりする部隊である。

 震洋は全長15メートル。幅1、5メートル。乗員2名。時速40キロ。

200キロの爆薬を搭載した、ベニヤのモーターボートである。

 嵐突撃隊の本部は、伊豆、下田に置かれていた。

 部隊の作戦範囲は三浦半島から、下田に至る相模湾全域と下田から御前崎半

島に至る、駿河湾の区域である。

 

 作戦の目的は、東日本の海岸で展回されるであろう米軍本土上陸作戦に備え

て、これを邀撃するため、各地に特攻基地を設けるためである。

 作戦の内容は、特攻船「震洋」で上陸艦艇に体当たりする作戦。

 海岸の砂浜に穴を堀り、地雷を抱えて待ち伏せして上陸艦艇に体当たりする

作戦。「蛸つぼ作戦」

 沖合いに停泊する上陸艦艇に爆薬をかかえて、潜水して体当たりする「人間

魚雷」作戦。等のほかに基地の整備事業である。

 

 この作戦に、清水空での教育訓練を打ち切られた、私たち15期練習生全員

が戦闘員として各基地に配属されたのである。

 

 後になって知ったことであるが、すでに搭乗員を養成する練習機の無い時点

に、海軍当局は、優秀な「甲飛」を全国各地から多数採用したのは、やがて、

日本の海岸線で展回されるであろう米軍本土上陸作戦に備えて、決死の攻撃作

戦態勢を取るためである。

 今思えば、誠に生と死、紙一重の生活を懸命に送るうち、思いも寄らぬ8月

15日の終戦を迎えたのである。

 それにしても当時、僅か16、17才の中学生が何のためらいも無く「祖国

の為に尽くす」と言う、純粋な信念のもとに身を投げうっていた事実を、戦争

とは無縁に育った若者たちに理解して欲しい、と思うのは無理なことであろう

か?

 

 網代での訓練は終戦末期の混乱した軍隊の様子を見せつけられた。

昭和20年6月27日清水空から100名の練習生が網代基地に赴任した。

 当時の網代の町は現在の網代温泉街から見ると、想像も出来ない静かな漁師

町であり、湯治用の温泉旅館が数軒しかなかった。

 兵舎替わりに宿泊したのは、温泉旅館と個人の別荘を借用したものである。

 

 私たち10人の同期が泊まった家は、某海軍中将の別荘。・・JR伊東線が

網代駅手前のトンネルに入る際の小さな岬の上にあった。

 付近には家は無く、別荘は総桧造り、二階建て(延べ50坪)広い庭付きで

ある。

 眼下から岬越しに熱海方面にかけて砂浜が見渡せる、風光明媚な景勝地であ

る。

 他の同期は数軒の温泉旅館に分散して宿泊した。

 

別荘下、海に突き出た岬の崖下に特攻船「震洋」を格納する横穴(幅3メート

ル長さ20メートル)がある・・・ここが訓練の場所である。

 本部のある兵舎(温泉旅館)までは500メートル離れている。

 鬼の分隊士、教員は居ない、住むは10人の同期(飛行兵長)のみである。

 今まで軍律厳しい、清水空での訓練を続けてきた身には、天と地がひっくり

がえった、自由な生活である。

 

 始めの内は、やがて特攻隊員として死ぬ運命にある我々に対する、当局の思

いやりかと感謝していたが、日が経つにつれ様子が違うのに気がついた。

 当時、網代基地にいた海軍軍人は一般兵(定員分隊)200名と予科練分隊

100名計300名の兵力だった。

 

 別荘での生活は、食事こそ近くの炊事場まで取りに行くが、風呂は温泉旅館

に行き、四方開け放しの畳に布団を敷き寝る暮らしである。

 着任から10日過ぎても「震洋」での訓練は一度も無い。これでは清水空で

鍛えられた身体も鈍ってしまう。・・・どうして訓練が無いのか・・・理由は

簡単である。

 100人の特攻隊員に対し「震洋」は2隻しかないのである。・・・いかに

も当時の海軍当局の無策、狼狽ぶりがうかがえる。これでは戦争に勝てる訳が

ない。

 

 訓練の順番が回って来ないので、現地徴兵の年輩水兵(二等水兵40才前後)

を集合させて、海軍体操を教えたり、駆け足をさせたりの役目である。

 兵長と二等水兵とはいえ、17さいの子供が親父と同じぐらいの兵隊を教育

するのだから、軍隊とはいえ、とまどったものだ。

 

 そんな生活が二週間続いた7月中頃になると、戦局はいよいよ悪化して、米

軍はわが国の制空権、制海権を完全に支配いした。

 網代基地に対しても、洋上の航空母艦から艦上機が飛来。虎の子の「震洋」

に射撃をするようになってきた。

 

 定員部隊の手により、特攻船の基地(横穴)作りを行っていたが、早急に完

成する必要にせばまれ、三昼夜作業で工事を進めるようになった。

 定員分隊だけでは手が足りず、訓練の無い予科練分隊に対し穴堀作業の命が

下った。

 

 かくして、終戦間近の我ら15期飛行予科練習生にとっては、学ぶ練習機も

なく、祖国の行くえを思い、身を捨てるべく志願した特攻船「震洋」にも乗る

こともなかった。

 通信のキー(電鍵)を打ち、航法計算盤に計算する手でツルハシを振るい。

 爆撃照準器や機銃を操作する替わりにスコップを握って終戦を迎えたのであ

る。


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2003年3月23日