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人間魚雷(第16期生・福岡)
我々としては、この編成で、敵の上陸攻撃に備えて、水際作戦のための任務につくことに
成ると言った程度のことが、判ってきた。
数日して、雑役がない小隊では、陸戦訓練を始めたが、隊の中で、陸戦に精通していのは、中隊付き下
士官一人で、手探りでの訓練で、其の内、マルト兵器??が我々の備になるらしい、そして、それらをもっ
て、水際で、敵戦車や、上陸舟艇に肉弾攻撃をする
のが、我々の隊の任務であると言ったことが判明して
きた。
其の兵器たるものは、現在の感覚で考えると、荒唐無稽の玩具みたいな、粗製濫造、間に合せみたい
な兵器で、それでも、サンプル程度の模型が支給されていて、只、形を想像できるのに役立つ程度であっ
た。
狙撃銃=現在の狙撃銃と言えばゴルゴ13に出てくるような、スコープ付の命中精度の高いものを想像さ
れるであろうが、さにあらん、99式陸式小銃も、全員に支給出来ないほど、欠乏の時代であり、その銃た
るや、鉄パイプに、装弾構造と撃鉄と引き金が作りつけられた、手製の鉄砲である。それはもう、子供の兵
隊ゴッコでも、もっとマシな玩具を使って居たであろうに、敵と合間見えて、対峙しようとする兵隊に装備す
るにしては、笑い事では済まされなかった。
箱爆雷=海軍で各人に貸与され使用していた、家庭配置薬の箱程度の、木箱を利用した爆雷で、箱に
爆
薬を詰めて、長い紐を雷管(起爆薬)と連動させて、その爆薬の入った木箱を戦車の動帯に投げて、紐を引
っ張って爆発させる仕組みのものである。
棒地雷=4x6センチの楕円形状で、約60センチ程度のブリキ製棒状のものに、爆薬を詰め、それを竹
竿の先に括り付け、戦車の下に敷かせて爆発させる構造。
円錐爆弾=直径25~30cm高さ25cmぐらいの、ブリキ製の円錐形のもので、底辺の平らな部分が頭
で、突起をつけてあり、これが信管を作動させる仕組みで、逆円錐形を、竹竿の先に取りつけて、直接戦
車に突きつけて、爆発させる構造。
破甲爆雷=これは、亀の甲みたいな形をしており、これは、本格的工場製品で、手のひらに乗る程度の
大きさで、磁石がついていて、戦車の外板に吸い付かせて、爆発させるもので有った。
チビ弾=陶器製で、丁度茶碗蒸の器みたいな形をしていて、戦車の銃眼や窓等の開口部から投げ込
み、目くらまし程度の爆発と、ガスが発生する仕組みのもの。
このような、装備で、水際陣地を構築して、蛸壺等の遮蔽に一人一人潜み、上陸してくる戦車に特攻肉
弾攻撃をするのが、我々予科練中隊に与えられた任務であった。
以上のようなことが、判ってきては居たが、我々が、配置に就く、海岸には行くこともなく、大八車に、戦
車の仮装をして、模型の爆雷兵器を使って、肉薄攻撃の訓練を数日続けていた。
ここで、変わった事と言えば、風呂を近辺の民家に、各小隊毎、契約して、貰い湯をすることに成り、交
代で、午後の早い時間からバス当番で、貰い湯の民家に行って、風呂沸かしの役務につくことであった。
我が小隊の、民家は、土地の写真館であり、同年輩の女学生もおり、当番の日は、ワクワクしたもので
ある。
そのころ、日本中各地が、B29や艦載機による空襲を受け、焦土と化してきている実態や、ニュースな
ど、世間のことは、全く分からないで、其の日の日課に追われて、てんてこ舞いをしていたのである。
佐々青年学校での生活
あわただしい、部隊編成で、曲がりなりにも、我々の予科練中隊も、模索を重ねて、日課をこなして行くこ
とに
なったが、士官も、陸戦隊について、専門家ではないので、戸惑いもあったことでしょう。
我々も、水際陣地の、防備要員になったという、自覚をしながら、どのようになるか想像も出来ないで、始
めのうちは、隊外に雑役に駆り出されることが多かった。
8月になって、数日経たころから、前回述べたような、攻撃訓練が、狭い青年学校の校庭で繰り返される
ようになった。
清水中尉が中隊長として、着任された後の、或る日のこと、清水中尉の引越し荷物を運ぶ要員として、
同期のK県出身の一六期生三名と、中尉の前任地の、下宿先まで、中尉に引率されて、公用外出で、佐
世保市に出かけた。
下宿先は、海軍通船桟橋から、交通艇で数分、渡った地区にあったので、海軍に入って、初めて、船に
乗れたことは、船狂ちの私にとっては、ほんの一往復の数十分間の僅かな時間であったが、内心欣喜雀
気で、今でも予科練生活の中で、福空でのリンクトレナーの適性検査に次いで、楽しい想い出として、心に
残っている。
佐世保は、海軍の街であるので、色々な階級の軍人と出会うのである、しかし、引率者の階級が、其の
集団の階級になるので、中尉以下の階級の者が、敬礼をしても、被引率者の我々は、其の敬礼をしてい
る者が、我々より上級者でも、中尉が答礼をするだけで、敬礼は要らないのであるが、初めての経験であ
ったので、非常にまごついた。
八月一〇日前後のことであった。海兵(江田島)出の中村少尉が、コレスのよしみで、前田少尉(海機出)
を訪ねられた際、少尉は、鹿児島県加治木中出身で、私の先輩であったので、其のとき、加中出身者が
呼ばれて、話をした。其の話で、数日前に、故郷に帰ってきたとの話で、其の中で、私の故郷牧園駅は、
空襲に遭っていないが、隣の佳例川駅前は、被害が出ているとのことで、安堵した。(しかし、これは間違っ
ていたのである、復員の事を書くとき述べます。)僅かで有っても、故郷の情報が聞けて嬉しかった。
其のようにして、八月に入って二週間近くの日数が経っていたのであるが、我々の日課は、雑役に陸戦
訓練と、区々の日々を過ごしており、あまり記憶に残っているような事柄がないようである。
しかし、其の頃には、広島、長崎の被爆の日があったわけであるが、我々には、全く情報は伝わっていな
かった。それだけでなく、戦況の逼迫はなんとなく感じ取れて覚悟はしていたが、具体的戦況についての情
報は知らされていないので、何処からか、伝ってくる断片的な情報をもとに、あーでもない、こーでもないと
言って、想像を交えて同期生と話をしていた。
福空で、陸戦隊編成に成り、一四、一五、一六期の混成で、二け月近くを、多少のメンバーが、転属のた
びに替わったものの、殆どが福空以来の顔ぶれであった。
そのような事が根底に有ったからか、甲種飛行予科練習生と言った気分は抜けず、練生としてのプライ
ドは強かった。
この頃になると、十四期は、上級者としての振る舞いをするのであるが、人により性格異なるように、中
には、鼻持ちならない、振る舞いで、我々一六期に当り散らす人も居て、多少窮屈な思いもする日も有っ
た。
ここでの、罰直は、アゴ、腕立て伏せ、バッターといったもので有ったが、ゼロ戦の急降下という罰直が編
み出された。
それは、下痢をしている者は、何か、余計な者を食べたのだろうと、テーブールの上に真直ぐに寝て、頭
と、両足を30度くらい上げて、くの字の状態になって、其のまま頑張るのであるが、腹は下痢気味なので、
腹の筋肉を引き締めなければ、すぐに足が下がるので苦痛な事である。それに、首の下と脚の下には、日
本刀の抜き身が横にして、刃をむき出しているので、じたばたすることも出来ない、それは、苦しい罰直の
一幕である。
一四期生の気分により、罰直は良く行はれたようである。
このような、生活の中で、旬日を過ごしたのであるが、そして、八月一五日を迎えたのである。
清水中隊の八月十五日
目まぐるしく、移動転属を重ねて到達した、佐々での生活も、二週間が過ぎていた。只、本土決戦に備え
て、水際陣地防備で、特攻肉弾攻撃要員が、我が隊の任務であることだけが判っているだけで、具体的な
方針は示されていず、どの地区が、我々の、防備配置であるかも全く知らされていないところで、手探りの
肉薄訓練が繰り返されていた。
お粗末な、爆薬兵器で、肉薄するには、投擲して、敵戦車に命中させなければならないが、それより、爆
薬を抱いて、其のまま、敵戦車の動輪帯の下にもぐりこめと、教えられた。
蛸壺壕から、飛び出して、爆薬を投擲して、また、壕に潜り込むなどと言った、余裕はないであろうと想
像していたので、肉弾で、戦車の下に潜り込む方法が最適と考えていた。しかし、自分が、そのような場面
で、実際に飛び込めるだろうかと言った不安も時々することも有ったが、漠然とでは有ったが、自分に言聞
かせながら、其の時は、潔く突撃し様思っいた。
八月一五日、部隊幹部には、其の日、待機みたいな指示があったのであろう、午前中各小隊とも、教室
で座学が、各小隊長を教官にして実施されていた。座学といっても、小隊長に、陸戦の専門的知識と経験
があるわけではないので、要するに、肉弾特攻についての決心でなければ成らないと言った意味のことを
中心に時間が過ぎていった。
丁度、正午になる頃、衛生兵が、教壇の小隊長のところに、伝令としてやってきて、耳元に囁いたら、小
隊長は、我々に其のまま待ての令を出して、教室を出ていった。
我々は、何事であろうと言った、不審は有ったが、ホット気を抜いて、席に就いたまま、数十分が経過し
たとき、岩山小隊長がアタフタと教室に入るなり、教卓の上に胡座をかいて、どっかりと腰を据えて、我々
を睨み付けるように見回した後、忠君楠公の七生報国の故事を懇々と説き始め、我々にそのような覚悟
を持てといったような話の後、お前等の命を俺にくれと言った後、日本は負けたのだ、恐れ多くも陛下の詔
勅が有ったと告げられた。
ついで、我々は、最後の一兵になるまで戦うんだ、皆、覚悟せよ、若し、事情が有って、行動を共に出来
ない者は、その旨申し出よ、じっくり考えて、決意してくれ、詳しいことは、追って判るであろうから、直ちに、
身辺整理にかかれ。と言い残して、教室を出ていかれた。
我々は、この様子を最初は、怪訝に思いながら聞いていて、敗戦と言う言葉をきいて、一
瞬唖然とした。
それを聞いて、私は、『あぁ、死に損なった。これで、寿命が来るまでは死ねないなぁ。』
次に、『あぁ、どの面下げて、故郷の人に会え様か、オメオメ、故郷に帰れるのだろうか。』
最後に、『負けて、残念だ、悔しい』といった、三のことが心中こみ上げてきたことを今でも
鮮明に覚えている。
2003年3月23日