[PR] この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。
白菊
昭和二十年三月下旬、九〇三航空隊から大井航空隊に転属した私は、第十四分隊の所属 となった。そして同じ時期に転入してきた同僚数名と、茶野上飛曹の指導で「白菊」によ る操縦訓練を行っていた。 ある日のこと、「飛行隊の搭乗員は、総員直ちに映写講堂に集合せよ!」と伝達された。 何事だろう。搭乗員だけに特別な映画でも見せるというのだろうかと思いながら、映写講 堂へ急いだ。 飛行隊長をはじめとし、各分隊長や分隊士連中が緊張した顔で集まっている。何となく 重苦しい雰囲気である。飛行隊関係者総員が集合したところで、大井航空隊司令奈良大佐 が、参謀を示す金色の飾緒(しょくちょ)を付けた中佐を伴って壇上に上がった。そして、 今度新たに編成された、第十航空艦隊の参謀であることを紹介した。続いて、 「今から聞く話は、軍の重大な機密である。だから、決して口外してはならない、また、 お互い隊員の間でも話題にしてはいけない!」と、念を押した。かたずを飲んで聞き入る 搭乗員の顔面に緊張感がみなぎった。 航空艦隊司令部から派遣された参謀の話を要約すれば、次のとおりである。 「諸君もうすうす承知していると思うが、現在戦闘に参加できる航空母艦は、もう一隻も 残っていない。赤城・加賀・蒼龍・飛龍はミッドウェー海戦で沈没した。マリアナ沖海戦 では、大鳳・翔鶴・飛鷹が沈み、三百機以上の飛行機と多数の搭乗員を失った。 次に、レイテ沖海戦では、残りの航空母艦と飛行機を全部集めて、全力出撃した第三艦 隊は、航空母艦も飛行機も全滅してしまった。また、『武蔵』以下の戦艦や巡洋艦なども ほとんどが沈没した。 更に、フィリピン方面での戦況は、既に末期的な状況となっている。アメリカ軍が次に 侵攻してくるのは台湾か、それとも直接本土に上陸するかも知れない。この難局に際して 残された手段は、諸君ら搭乗員が一機で一艦を沈める『体当たり攻撃』以外に方法はない。 よって、第十航空艦隊は全保有機をもって『神風特別攻撃隊』を編成し『体当たり攻撃』 を実施する」。 * 南方戦線における海戦や航空戦での我が方の損害は、断片的なうわさ話によりうすうす は承知していた。また、フィリピン方面における「神風特別攻撃隊」の活躍やその戦果は、 大々的に発表されていた。しかし、それは一部の志願者による特別な行為であって他人事 としか考えていなかった。だから、自分自身が「体当たり攻撃」を実施する立場にたたさ れるとは夢想もしていなかったのである。 ところが、航空艦隊参謀の説明によれば、全保有機で「特別攻撃隊」を編成するという。 これは志願者を募るのではなく、飛行隊をそのまま「特攻隊」に編成替えして「体当たり 攻撃」を実施するということである。それなら、もう逃げも隠れもできない瀬戸際にたた されたことになる。 航空艦隊参謀から、「諸君が一機で一艦を沈める体当たり攻撃以外に方法がない」と、 言われると、「よーし、やるぞー」と、いう気持ちになる。しかしその反面、「まだ死に たくない、他にも何らかの方法があるのではないのか……」との思いが交差する。このよ うに、精神的な動揺をどうすることもできなかった。 日ごろ、最も危険とされていた飛行機搭乗員の配置にありながら、われわれは自分の死 についてあまり深く考えたことはなかった。それは、出撃しても自分だけは無事に生還で きると信じることで、この生死の問題から故意に逃げていたにすぎない。しかし、普通の 爆撃や雷撃に出撃しても、 無事に帰還できるという保証はだれにもなかったのである。 そのうえ、われわれ搭乗員の思惑とは関係なく、「神風特別攻撃隊」の編成は計画的に 進められていたのである。大井航空隊は本来、偵察専修の搭乗員を養成するのを任務とす る練習航空隊である。ところがこの時期、学生や練習生に対する教務飛行は既に中止され、 練習航空隊は編制改正により、実施部隊に生まれ変わっていたのである。 艦上攻撃機・艦上爆撃機・戦闘機それに陸上攻撃機など、 操縦員を養成していた練習航 空隊は、第十一、第十二聯合航空隊に、また偵察員を養成していた練習航空隊は、第十三 聯合航空隊に編成替えされた。 そして、 これを統括するのが新編制の第十航空艦隊である。 その第十航空艦隊が、 全保有機で「神風特別攻撃隊」を編成するというのである。 来るべき秋がついにきた。たとえ生還の確率が少なくても、雷撃や爆撃など帰還するこ とが前提の出撃であれば、自分だけは絶対に生還できると信じることで、精神的な不安を 克服することができる。死は結果であって、目的ではないからである。 ところで、いくら命令だからといっても、生還できない「体当たり攻撃」に、平静に出 撃することが果たして可能なのだろうか。戦死することもあり得ると、承知のうえで志願 した海軍ではあったが、死ぬのが目的で志願したわけではない。 開戦劈頭のハワイやマレー沖海戦で発表された、我が軍の損害は、比較的軽微であった。 だから、軍隊に志願したからといっても、生きて凱旋するのが前提であって、戦死する方 が例外だと考えていたとしても、あながち不自然とはいえないはずである。 あらゆる困難を克服して任務を遂行し、武勲をたて、勲章を胸に付けて故郷に錦を飾る のが、当時の一般的な考え方であった。ところが、事態は一変した。「全機特攻」の命令 である。 ここに至って生還の望みは完全に断たれたのである。 日ごろわれわれは、死についてあまり深く考えようとはしなかった。生死を超越してい たといえば聞こえはよいのだが、実際は自分だけは生きて帰還できると希望を持つことで、 この問題を避けていたに過ぎない。ところが、「特別攻撃隊」に編入されれば今までとは 違って、生死の問題を避けて通るわけにはいかなくなったのである。 一時的な興奮にかられ「体当たり攻撃」を決意することは可能であろう。だが、理性的 にこの問題を解決するのは大変なことである。また理屈では割り切れても、本音では悩ま ざるを得なかったのである。これが煩悩というものであろう。 また反面、人には見栄というものがある。どうせ一度は死ぬのだ。それなら、華々しく 散華して戦功を皆に認められたいという願望である。それには、「特別攻撃隊員」として 「体当たり攻撃」を敢行することが、搭乗員にとって最も名誉な死に方であろう。 このような、内心の葛藤も次第に治まり、表面的には、一応冷静さを取り戻すことがで きる。このような経緯で編成されたのが「神風特別攻撃隊八洲隊(やしまたい)」である。 これは大井航空隊のすべての保有機で編成された。
「白菊」この可憐な草花の名で呼ばれた飛行機は、帝国海軍が偵察搭乗員を教育するた
め、九〇式機上作業練習機の後継機として開発装備した練習機である。昭和十七年以降、
「九州飛行機」で、約八百機が生産されたと記録されている。だが、命名の由来は詳らか
ではない。
機上作業練習機「白菊」。
この「白菊」が本土決戦に際し「特攻機」に改造され、二百五十キロ爆弾二発を搭載し、
新鋭の実用機に伍して猛烈な弾幕を浴びながら敵艦目がけて突撃し、「体当たり攻撃」を
敢行するという悲劇を、当時だれが想像できたであろうか。
各練習航空隊において偵察専修の搭乗員を訓練する練習機として、教務飛行に使われて
いた「白菊」を、今度は実戦に使用すると言うのである。だが、「白菊」は本来練習機と
して開発された機材である。だから、スピードも最高で百二十ノットと遅いうえ、燃料も
満タンで四百八十リットルしか積めないので、約六百浬の航続距離しかない。そのため、
「特攻機」としての改造が行われた。 まず零式戦闘機用の増槽(落下燃料タンク)を胴体内に積み込んで固縛し、燃料の積載
量を増やした。次に、主翼の付け根に、二十五番(二百五十キロ爆弾)の投下器を装着し
た。だが、爆弾は本来飛行機に積んだままでは爆発しない。理由は、爆弾の信管には安全
装置が施されていて、爆弾が機体を離れて初めて安全装置が解除される仕組みになってい
るからである。そのため、 爆弾を機体に装着したままこの安全装置を解除する特別な装置
が着けられた。そして「白菊」は「特攻機」として生まれ代わったのである。
第十三聯合航空隊は、偵察員を養成する練習航空隊であった、
鈴鹿航空隊・大井航空隊 ・高知航空隊・徳島航空隊の旧第十三練習聯合航空隊を実施部隊として改編したものであ
る。だから、各航空隊とも装備機は「白菊」であった。
各航空隊では第十航空艦隊の命令によって「神風特別攻撃隊」を編成した。菊水部隊白
菊隊(高知航空隊)・徳島白菊隊(徳島航空隊)・八洲隊(大井航空隊)・若菊隊(鈴鹿
航空隊)である。そして、「神風特別攻撃隊」の編成が完了すると、「体当たり攻撃」の
訓練が開始された。 昼夜にわたる猛訓練を実施して錬度の向上を図り、夜間の出撃が可能となった時点で、
鈴鹿航空隊及び大井航空隊は第三航空艦隊に、高知航空隊と徳島航空隊は、第五航空艦隊
にそれぞれ配属された。そして、ついに「菊水作戦」と呼ばれた、沖縄周辺の敵艦船群に
対する「特攻作戦」に参加することになったのである。
五月二十四日の「菊水七号作戦」を皮切りとして、六月二十五日の「菊水十号作戦」ま
でに、百三十数機の「白菊」が、沖縄周辺の敵艦船に対して、還らざる「体当たり攻撃」
を敢行した。その内、五十六機が突入確実と認められ、聯合艦隊の告示によってその功績
が全軍に布告された。そして、二百数十名の尊い命が「白菊」と運命を共にしたのである。
藤 岡 義 貴(宮崎市) 今年もまた六月がやってきた。毎年この季節になると、私には特別な感情が湧いてくる。
それは名状しがたいものである。今生きていることが不思議に思えること。生きているこ
とが何だか申し訳ないような気持ち。生きていてよかったと思う気持ち。これらが交錯し
た複雑な感情である。 今を去る五十数年前、私は甲飛十二期生として鹿児島航空隊に入隊した。予科練を卒業
した後は谷田部航空隊に移り、第三十七期飛行術練習生を命じられ、中間練習機での操縦
訓練を受けた。引き続き姫路航空隊において艦上攻撃機による訓練をけ、一人前の搭乗員
として実施部隊へと巣立った。 大分県佐伯基地に所在する第九三一航空隊に赴任したのは、昭和十九年の年末であった。
ここでは九七艦攻に搭乗し、航空母艦の発着艦訓練その他の錬成訓練が実施された。また、
日向灘や豊後水道の対潜哨戒なども実施していた。
昭和二十年三月、徳島航空隊への転属命令が発令された。徳島航空隊には、第一、第十
一、第二十一の飛行分隊があった。ところが、今度私のように各地の航空隊から転任して
きた者は、これらの分隊に編入されずに新たに第三十一分隊が編成された。この分隊は、
戦闘機それに艦攻や艦爆など比較的経験豊富な操縦員だけで構成されていた。変わり種と
しては水上機から陸上機に機種転換した者もいた。
私の所属した第三十一分隊は、海兵出身で艦攻操縦員の小柳津中尉が分隊長であった。
分隊士は殆ど予備学生の出身者で、それに下士官兵を含めた約五十名で編成された。そし
て、これらの四個分隊を統括する飛行隊長は田中少佐(海兵六十七期)であった。
皆の話を聞いてみると、練習航空隊の教員配置のつもりで赴任したきた者が大部分であ
る。ところが古くからいる隊員の話では、学生や練習生を対象にした教務飛行は燃料不足
のため既に中断しているとのことである。そのうえ、特攻隊を編成するという噂が囁かれ
ていた。それが本当なら、第三十一分隊は特攻要員として集められたことになる。不安は
増すばかりであった。 四月始め、総勢約二百五十名の搭乗員全員が集められた。ここで、航空隊司令川元大佐
から「特攻隊員を命ず」と宣告された。不安は的中した。「神風特別攻撃隊・白菊隊」の
編成命令が出されたのである。この時期、特攻隊は志願者を募るのではなく、飛行分隊の
所属搭乗員を命令によってそのまま編入したのである。
早速特攻訓練が開始された。第三十一分隊は各地の実施部隊から集められた操縦員ばか
りで、「白菊」に乗るのは初めての者ばかりであった。そのため地上でエンジンの性能や
飛行諸元などの説明を受け、操縦員同士が乗り込んで打っ付け本番の離陸着陸の訓練から
始めた。「白菊」は艦上攻撃機に比較して操縦のやさしい飛行機であった
そして、離着陸の訓練が終わると次は昼間の計器飛行に移った。これは、極端に速度の
遅い「白菊」で沖縄特攻を行うには、敵機に発見されにくい夜間攻撃が有利と考えられた
ためである。飛行眼鏡に黒い紙を貼りつけ計器盤だけが見える小さな穴をあけ、淡路島か
ら和歌山そして姫路の上空へと計器だけを頼りの航法訓練を実施した。
本来このような飛行訓練は操縦員と偵察員がペアになって行うのが普通である。だが、
私たちが正式にペアを編成したのは、出撃が決まり串良基地へ進出する直前であった。
そのうち訓練は夜間飛行が主体となった。昼間は就寝し夜間に飛行作業を実施するとい
う昼夜逆転の生活がはじまったのである。そして、飛行作業の合間には、種子島から沖縄
本島に至るまでの喜界島や奄美大島それに与論島などの位置と、島の形を覚えることに専
念した。これが終わると、次は艦形識別である。写真やスライドなどを使って、アメリカ
海軍の戦艦・巡洋艦・航空母艦などの形式を記憶するのである。
これらの訓練は、夜間アメリカ軍のレーダーを避けるため、高度百メートル以下の低空
で進撃し確実に沖縄本当にたどり着くことともに、体当たりの目標である敵艦船の識別を
主眼としたものであった。当時は戦果確認のための友軍機などは飛ばない。だから、自ら
目標を識別して体当たりを敢行し、直前にこれを基地に報告しなければならない。
戦艦に体当たりする場合は「セタ セタ セタ」と打電し、最後は電鍵を押しっ放しにし
「ツ ━━━━━━━」 と長符を送信する。この電波が途切れた時が即ち体当たりの時刻
であると同時に戦死の時間なのである。「ホタ
ホタ ホタ」は敵空母に体当たりするとの 意味であり、
「ユタ ユタ ユタ」は敵輸送船に体当たりするという予め決められた通信略
語である。 ところが、 電信機を積んでいる飛行機は少なく、殆どの飛行機は電信機を降ろしていた。
これは五百キロ相当の爆弾を積むために機体重量を軽くする目的もあったが、体当たりし
て消耗する飛行機に電信機はもったいないと言うのが本音である。
また、たとえ電信機を積んでいても暗闇では出合い頭に集中砲火を浴びて、初めて敵に
気づくような状況のなかで、艦形を確かめて発信する余裕などはない場合が多い。いきな
り撃ってきた防禦砲火に向かって突っ込むことになるからである。だから、どんな艦種に
体当たりしたのか誰にも確認できないのである。
昭和二十年五月二十日二〇四二、徳島航空隊に対して次の出撃命令が伝達された。
「徳島空司令は明二十一日、白菊三十機(昼間組十五機・夜間組十五機)をひきい、串良
基地に進出すべし。」 更に五月二十二日〇一〇八、次の命令を受信した。
「一、進出期日を二十二日に改む。 二、徳島空司令は五月二十二日一三〇〇までに、更に昼間組二十、夜間組十五の進出準
備を完了すべし。」 続いて五月二十二日〇二一四、次の命令が伝達された。
「X日攻撃のため、二十二日中に残余の白菊特攻隊昼間組全機を、作戦基地に進出せしめ
られたし。」 かくして私は、第一陣昼間組の一員として串良基地に進出することになった。昼間組と
は、午前三時前後に発進して夜間進撃し、黎明時に敵陣に到着して攻撃を実施する訓練を
行った組である。これに対して夜間組とは、午後七時から八時にかけて発進し夜間攻撃を
行う組である。いずれにしても、夜間飛行が主体となるので攻撃には月明の夜が選ばれる
ことにっていた。 出撃命令を受けた二十一日の夜は、搭乗員による壮行会とも送別会ともつかない飲み方
が明け方まで続いた。翌朝飛行指揮所前に集合して、司令川元大佐の訓示を受ける際には
立っていながら上体が揺れている者がいた。
やがて次々に離陸を開始する。整備科その他各科の連中や、隣接した航空廠に動員され
ている女子挺身隊員に見送られての出陣であった。途中、築城基地に着陸して燃料を補給
したが、ここに到着するまでが大変であった。編隊を組んでいても二日酔いの操縦する機
は右に左に揺れて、今にも翼が接触するのではないかと心配の連続であった。
しかし、築城基地を離陸してからは整然と編隊を組み見事な飛行ぶりであった。コース
をやや西側にとり、阿蘇や天草上空を飛んで霧島と桜島の間を抜けて串良基地へ到着した。
ところが、いざ着陸する段になると、どの機もみんな異常に高度が低くすぎてやり直しの
連続である。 着陸して高度計を見てやっと気づいたことは、串良基地は築城基地より標高が高いとい
うことである。普段離陸して同じ飛行場に着陸する場合には、地上で高度計の針をゼロに
規正しておけば飛行場の標高を気にする必要はない。ところが別の飛行場に着陸する場合
は標高差を考慮しないと失敗する。標高ゼロメートルの飛行場を離陸し、標高二十メート
ルの飛行場に着陸する場合は、誘導コースは計器表示二百七十メートルで回る必要がある。
五月二十四日、菊水七号作戦に伴い遂に出撃が下令された。沖縄周辺の敵艦船に対する
「体当たり攻撃」である。私は第一次攻撃隊の昼間組であった。つまり最初の黎明攻撃を
実施することになった。二十四日の夜は、夜間組の発進を帽子を振って見送った。その後、
串良小学校跡の仮兵舎に移って仮眠した。ところが、毛布にくるまって横になっても感情
が昂ぶってなかなか寝付かれなかった。 午前三時に起床。指揮所の前には白布に覆われたテーブルが準備されていた。川元司令
の「ご成功を祈る」との訓示を聞いて盃を交わした。終わってそれぞれ自分の飛行機が置
かれている掩体壕へ急いだ。すでに燃料が積まれ、二十五番(二百五十キロ爆弾)二個が
両翼に装着されていた。 そして直ぐに出発できるように整備員によって暖機運転も完了していた。操縦席に乗り
込んで試運転を行い地上滑走で掩体壕から離陸地点に向かっていた。ところが、「攻撃中
止」の指示が伝えられてきたのである。「何事ならん!」と元の掩体壕に引き返した。
この時期南西諸島方面はすでに梅雨であり、目的地の天候が悪く攻撃目標が視認できな
い恐れがあるための中止であつた。恐らく先に進撃した夜間組の通報を受けたのであろう。
それとも後でわれわれが想像したのだが、九十ノットそこそこの「白菊」が、五時間もか
けて沖縄に着くころには、すでに夜は明け放れている。これでは被害のみ多く、戦果が期
待できないと判断されたのであろう。なぜなら、第一次から第五次までの攻撃はすべて夜
間組によって実施さ、昼間組は出撃しなかったからである。
そしてなぜかその日、昼間組のわれわれは原隊に帰還を命ぜられた。後ろ髪を引かれる
思いで串良基地を離陸したのである。そして、再び眺めることもないと諦めていた懐かし
い故郷宮崎の上空を飛んで、直接徳島航空隊へ向かった。
昼間組は新たに転入してきた艦攻や艦爆の操縦員が主力である第三十一分隊で編成され
ていた。だから、われわれを本土決戦に備えて温存したのではないかとの噂が囁かれた。
しかし、真偽は不明である。 徳島白菊隊は、昭和二十年五月二十四日の第一次から、六月二十五日の第五次にわたり、
六十一機が出撃した。その内二十九機が攻撃成功と認められ、井上中尉以下五十七名の者
が「特攻戦死」と認められ、その功績が全軍に布告された。
私たちは特攻出撃に際して、所感文の提出を求められた。これが五十余年前、死を目前
にして絶筆になるであろうと思いながら書いた所感である。当時十八歳であった。
出撃に際し所感 第三十一分隊 海軍一等飛行兵曹
藤 岡 義 貴 出撃に際して特に書くことなし。
ただ、自分が生まれてすぐから寝たきりとなった母に代わり、
自分を今日まで育ててくれた父に対し、国のためとはいえ、
何の恩返しもせず先立つ不幸をお詫びしたい。
藤岡義貴君は鹿児島空では第二十二分隊の四班で、筆者の隣の班であった。谷田部空の
飛練でも同じ第四分隊で飛行訓練を受けた仲である。機種も同じ艦上攻撃機であったが、
彼は姫路空で訓練を受けた。飛練卒業後の実施部隊でも所属部隊こそ違ったが、対潜哨戒
という同じ任務に就いていた。 また時を同じくして、第十航空艦隊隷下の部隊に転属となり「白菊特攻隊」に編入され
た。その上彼は、出撃直前の体験までしている。彼が言うように生きていて良かったのか
との思いは同じである。だが、生き残った以上は、英霊の慰霊顕彰に余生を捧げたい。
2003年3月22日