[PR] この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

戻る


特攻兵器①

水中特攻兵器概要

「甲標的」搭乗員二名

開戦壁頭昭和十六年十二月八日ハワイ真珠湾特別攻撃隊、十七年五月三十一日シドニー攻撃等に使用された甲標的を、昭和十七年六月から、基地の防御用に使用する為、自己充電能力を持たせる装置が付加されその性能を高めた。既定の建設予定の五十三基を甲型とし、その中の一基をこの改造計画に充当して、乙型とて改造する。(一基のみにて中止)昭和十八年七月に完成し、試験の結果、更に操縦室を改造して丙型(搭乗員三名)とし量産した。

「蛟龍」(甲標的T型)搭乗員五名

排水量五十九・三トン、前頭部に魚雷発射管二基を装備 丙型を更に変更し大型化したものを「甲標的丁型」と称したが昭和二十年五月二十八日付兵器に採用し「蛟龍」と命名され、自己充電能力を強化し、水上航行性を増加し、行動日数、五日の小型潜水艇のようになった。二十年三月特攻兵器として量産され、終戦時まで約百基が完成、未完成のものは五百基以上に達していた。輸送艦上に、二艇の蛟龍と六基の回天を発進させる二本のレールが敷かれ、クレーンで発進させた。決号作戦では蛟龍も魚雷を装備せず、艇首を爆装し、特攻攻撃が討画された。

「海龍」SS金物

排水量十九トン、艇首を六百キロの爆薬にて、艇の外部に吊す魚雷発射筒二基を装備し(ロケット推進薬にて発射)水中有翼の小型潜航艇。昭和十九年八月軍今部第二部浅野卯一郎中佐の発案で同部員の努力によってて試作第一号艇、九月同二号艇が完成し、二十年四月一日付その量産についての海軍大臣訓令が発せられ、同年五月二十八日兵器に採用「海龍」と命名され、終戦時までに二百二十四艇が完成、未完成約二十艇であった。
またこんな説もある。昭和十八年の後期から甲標的を改造して進められ、十九年に横須賀軍港で「回天」どドイツのビーパー潜航艇を参考として、より小さい有翼の潜航艇が建造され、フィリッピンと沖縄の基地防衛の目的に製造され、後に本土防衛の「決号作戦に於ける海軍作戦計画」展開のために各地の特攻戦隊に一隊十二艇編成で二十一の突撃隊に配備される。

「回天」 6金物 搭乗員 二名

前頭部に爆薬を装備し、人間魚雷とも呼ばれ、当初は潜水艦に搭載され艦船に接近し発艦されるも、帰艦回収不能で決戦作戦ては陸上基地に配備され、昭和ニ十年四月二十五日以降十五突撃隊に編入された。他にも編成予定のものが二隊あった。搭乗員が乗艇すると外部からハッチ(出入口の蓋)を閉め自力では脱出不能なために、訓練時、推進力が無くなると(前頭部の薬搭載部に圧搾空気を入れ)浮上するようになったいたが、浮上せず数名が事故死したと聞いたことがある。
「回天特別攻撃隊千早隊、多々良隊」の作戦によって回天による泊地攻撃を困難と認め、搭乗員の練習も向上したので洋上における航行攻撃を試み「回天特別攻撃隊振武隊」を沖縄・マリアナ諸島の中間海域に出撃を令じ、昭和二十一年四月二十七日輸送船団を攻撃しその三隻を撃沈。五月二日沖大東島南々西にて大型駆逐艦、輸送船を各一隻。同七日にも同島南方において特空母(又は軽巡)一隻撃沈した。五月初め「回天特別攻撃隊振武隊」・「回天特別攻撃隊菊水隊」・「回天特別攻撃隊金剛隊」と次々と編成され、出撃し多大な戦果をあげて多くの同期生が海に散って行った。

「震洋」 4金物 搭乗員一名

昭和十九年八月二十九日第一震洋隊が編成された後二十年三月末までに五十八隊が編成、このうちの半数近くは捷号作戦のため準備され二十~三十突撃隊・百一~百七突撃隊・百十三突撃隊等は、天草・石垣島・沖縄・高雄・馬公・海南島・海口・舟山等の警備隊。香港・アモイ特別根拠地等日本を遠く離れた各地にまで、多くの同期生が派遣され同期生戦死者九百七十三名中「震洋艇」による者が一番多かったと云われている。更に五月以降八月五日までに四十六隊が編成された。艇は木製(ベニヤ板)でトラックのヂーゼルエンジンから滅速歯車を取除き高速を得るようにした高速艇で前頭部に爆薬を搭載して敵艦船特攻攻撃用に計画される。
暗夜を利してに特攻攻撃するも、スクリューから出る白い波と、エンジンの高音によって早期発見され、敵艦を目前にして機関銃により、爆破され残念にも海に消え去った同期の友の霊よ安らかにと心から冥福を祈る次第であります。



 開戦へき頭、真珠湾に潜入した特殊潜航艇「甲標的」がその前身であり、これを改造して、昭和二十年初頭に出来上がったのが「蛟龍」である。蛟龍は、自己充電能力と水中航行性能を強化した五人乗りの小型潜水艦だが、実戦に参加することなく終わった。

 

  海 龍

 魚雷発射筒二基を装備した水中有翼の小型潜水艇(乗員二名)で、最初SS金物と呼ばれていた。「海龍」は、蛟龍に比べると動作が敏捷で、潜水浮上は補助翼によった。 昭和二十年六月上旬以降、関東を中心に配備されたが、これも実戦に使用されずに終戦を迎えた。

 

  震 洋

 日本海軍で、唯一実用化された水上特攻兵器(爆装モーターボート)で、昭和十九年に登場した「震洋」には、一人乗りの一型改と二人乗りの五型とがあった。主にフィリピン、沖縄方面に出撃し、また、本土決戦に備えて、全国各地に配備された。

 

  伏 龍

 簡易潜水服を装備して、海底に潜み、上陸してくる敵舟艇が頭上を通過するとき、海底から棒地雷で舟艇の底を突き上げて爆破するという、極めて原始的な特攻戦法である。

 

  桜 花

 「桜花」は、頭部に一,二トンの爆薬をつめ、ロケット噴射で敵艦隊に突入する超高速単座滑空爆撃機(人間爆弾といえるもの)である。これは、一式陸攻の胴体に吊して基地を発進し、敵艦船から数一〇キロ離れた上空で、母機から離弾発進させる。沖縄戦で登場するが、実際には、母機が、途中で敵戦闘機の邀撃に遭って全滅した。

 

  秋 水

 陸海軍協同で研究試作された高々度局地戦闘機で、化学ロケット推進特殊乙戦として着手された。機体は、無尾翼中翼単葉、主翼は先細、大後退翼、補助翼は昇降舵を兼ね、主翼後縁にフラップ、前縁に固定スロット、胴体内に過酸化水素タンク、翼内に水化ヒドラジンタンクをゆうしていた。B29への緊急対策として、昭和二十年九月までに、一,二〇〇機の生産が予定されていたが、完成したのはわずか五機で、実用にはいたらなかった。

                                      以上

編者  板垣 龍(甲13期)

発行所 美保空資料収集委員会


 戻る

2003年3月22日