それは2月21日でした。夕食後突然総員整列があり、分隊長から「皆の中から特攻隊、地上要務員、予科練の教員を募集するから、希望を紙に書いて出すこと。血気にはやって特攻隊を希望するというのではなく、本当に自分に適したものを選べ。血書はするな」と話がありました。
説明によると、飛行機による特攻ではなく、水上兵器らしい。私はまだ飛行機に未練はあったが、特攻隊を希望し、血気の勇にあらずと書き添えて出しました。B29が時々鈴鹿上空を飛んでも、反撃できない苛立ち、卒業のあてもなくむなしい思いで穴掘りをしていたから、現状変化を求める気が強かったのです。全員特攻志願かと思ったが、同班のNは「俺は一人子だから教員を希望した」ということでした。
多分その夜だったと思うが、巡検後班長が私の釣床にきていろいろ話し合った。私が「特攻隊は、操縦員だけで突っ込んでしまうから、偵察員はもう必要無いですね。これから偵察員が必要な時は来るのでしょうか」と疑問をぶっつけると班長は「偵察員を必要とする時はかならず来るよ。いかに戦争とはいえ、特攻隊のような人道に反したやり方はよくない。戦いも正常に戻るべきだろう。ドイツはV1号など新兵器を発明して機械でやるが、日本は人間がやる。この辺はドイツと日本の差だ」と言われた。人道という、海軍で聞き慣れない言葉が印象に残りました。
甲飛先輩の班長は、悲愴感に酔った後輩の身を案じていたのかも知れません。当日の日記に「俺は特攻隊とのみ志願した。もとより入隊時より生あるを望まず。他に兄あり。弟は二人あり。あとに心残りなし。早く結果を知りたい」とある。どうも長男や一人子は無理するな、と言われたようです。
我々の場合、特攻に指名されても直ちに突っ込むわけじゃない。必要な訓練期間があるわけだから、それほど切迫した空気はなく、海軍部内の転科程度に考え、ごく自然に希望を書いたつもりです。しかしその晩は大変重苦しい夢を見たように思います。
だが、予想に反して私は選に漏れ、その後あった海軍初の戦車兵募集にも選ばれず、最後まで鈴鹿基地に残ったのでした
第13・後期予科練生・美保
2003年3月21日