昭和20年3月19日、下記の航空戦があった。
だが、同じ敷地内にいた叔父にはその記憶がまったくない。どうも解せない話ではある。
紫電改の上げた最大の戦果は昭和20年3月19日であった。
この日、午前5時40分、3機の最新鋭の偵察機「彩雲」が、そしてもう1機の「彩雲」計4機が索敵のため松山基地を飛び立った。
午前6時50分、彩雲より「敵機動部隊見ユ、室戸岬ノ南30マイル」の第一報が入る。
続いて「敵戦爆連合大編隊、豊後水道ヲ北上中、高度三千」が入電。
ただちに、維新隊16機、天誅隊17機、新撰組21機、計54機の「紫電改」が発進。
高度四千メートルで呉方面に進行中のヘルキャットを中心とする敵編隊に対し、高度五千メートルで待機。
ちょうど、松山上空で敵編隊を急襲、激しい空中戦を展開する。
この日の戦闘で確認された戦果はグラマン「F6F」
ヘルキャット、チャンスヴォート「F4U」コルセア」合わせて48機撃墜
カーチス「SB2C」ヘルダイバー爆撃機4機撃墜、対空砲火による撃墜5機、合わせて57機を撃墜。
我が方の損害は自爆16機(内1機は彩雲)地上炎上及び大破5機であった。
この戦果により連合艦隊司令長官豊田副武大将から343空に感状が送られた。
「昭和20年3月19日、敵機動部隊艦上機ノ主力ヲモッテ内海西部方面ニ来襲スルヤ、コレヲ松山基地ニ邀撃シ、
機略ニ富ム戦闘指導ト尖鋭果敢ナル戦闘動作トニ依り、忽チニシテ敵六十余機ヲ撃墜シ、全軍ノ士気ヲ高揚セルハ、
ソノ功績顕著ナリ。 依ッテ茲に感状ヲ授与ス。」
この日以降、米機動部隊は松山上空を避けるようになった。
4月1日、米軍は突如沖縄に上陸を開始、これにより343空も戦場を九州南方海上に移動。
四月初旬、松山の343空は全機が鹿児島県鹿屋に移動。
各基地より出撃する神風特別攻撃隊の直上掩護及び各基地の防空にと大村、国分など各基地を転戦し終戦を迎える。
343空は戦後、戦いを振り返って「隊の戦史資料」をまとめた。このなかに、次のような記述がある。
「わが飛行隊は、敵の心胆を寒からしむる事しばしばにして敵撃墜約170機におよび武勲顕著なるも、各戦闘飛行隊長
、善戦連闘、ついに戦死し、計78名の搭乗員を失えリ」
そして「戦訓所見」として
1、航空戦略に対する認識と準備の欠如
1、日米の工業力の差に対する理解の欠如
1、軍司令部の机上計画が作戦の混乱を招き、いたずらに兵員の消耗、犠牲をふやしたこと
戦時中の軍中央を素直に批評して以上のように述べている。
彼らの戦法について、元アメリカ軍B29の爆撃手ウイルバー・モリス氏の証言から
「彼らの攻撃は猛烈だった、上空からまっすぐ我々に向ってて逆落としに突っ込んできた。12機編隊のB29の場合、1機あたり6門の機銃が火を噴く。 たちまち「弾の壁」ができてしまうんだが、彼らは、そこを突き抜けて攻撃してきた。 あまり接近するので、搭乗員の顔がはっきり分かったほどだ。 素直に言うが、あんなに勇敢なパイロットはほかにはいない。」
彼らは、信じがたい確率に、自分を賭けていたのである。
平成元年(1989)8月15日、昭和の終わった翌年の終戦記念日、源田実・元司令が松山で亡くなった。85歳であった。 「343航空隊」という特別の航空隊を作った経緯について、生前の言行録によると「昭和19年後半、戦局はいよいよ米軍優位となり、日本本土を目指すアメリカの進撃勢力は一向に衰える気配を見せない、私は海軍軍令部第一課の航空作戦の主務参謀として働いていただけに大いに責任を痛感していた。 なぜ戦争に勝てないか?。 究極的に出てくる答えは「制空権の喪失」ということだ。なぜ、制空権を握れないか? 戦闘機が負けるからだ。こうした状況下にあって、私はなんとかして精鋭無比の戦闘機集団を作り上げて制空権を奪い返し、怒涛のような敵の進撃を食い止めなくてはならないと考えた。軍令部でも、私の考えは受け入れられた。その新しい航空隊の指揮官役を自分でかってでた。」 |
海軍第三四三航空隊「剣」は、昭和19年暮れも押し詰まった12月25日発足した。
源田司令、中島副長、志賀飛行長・・・・幹部は、すべてそうそうたる戦闘機経験者ばかり、しかも戦闘隊員の三分の一は「A級」といわれたトップクラスの技量をもったベテランパイロットで、各戦闘隊の中核になった。
そして、戦闘飛行隊は組織図にあるように「維新隊、天誅隊、新撰組」と、それぞれにニックネームをつけて、意気盛んなところを競い合った。
3人の隊長はチャキチャキの闘志溢れる大尉ばかりであった。それぞれ「知将、仁将、猛将」といわれていた。
訓練は天候の許す限り2本の滑走路を12分に使って、最初から編隊戦闘の演練であった。列機に対しては、如何なる事があっても絶対に長機から離れることがないように強調しながら、3月初めには早くも16機の編隊空戦が出来るようになった。
当時の保有操縦者は170人で、そのうち練度甲の技量保持者は35人であった。
それに整備員その他の地上員まで含めると3,000名を越える大部隊となり、しかも飛行機や通信機器は最高のもの、操縦士も全航空部隊から引き抜いたベテランぞろいであった
当時世界最強の戦闘機部隊と詠われた
松山第343航空隊の在りし日の勇姿
松山基地の紫電改革
2003年3月20日