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3月1日 練習連合航空総隊司令部、第10航空艦隊に編成替え、第21、第22、第23、第24連空編成


      予科練も作戦部隊に編入

  海軍は、昭和二十年三月一日に、戦時編成を改編して、予科練を作戦部隊に繰り込んだ。この改編でなにが変わったかというと、予科練教育が中止されて、練習生は、美保基地の拡張作業や新川基地(島根県) の建設作業など、つまり、土方作業に従事させられたことである。

 そして、五月下旬から六月にかけて、十四期は、蛟龍、海龍、震洋、グライダー、佐伯防備隊の特攻要員として、各地に配備され、空になった美保空は、六月三十日をもって解隊となった。

 また、新川基地の建設に当たっていた十五期二次の一部は、壁面のパネルにみられる伏龍隊員ー 五〇キロもある潜水服を身につけて、手に棒地雷を持って水中に潜り、米軍の上陸用舟艇が頭上にきたら、舟艇の底を棒地雷で突く−に回された。

 練習生の去った美保空の兵舎がどうなったかというと、米軍の空襲の被害を軽減するためか、七月に取り壊されてしまった


13期・美保


 昭和20年3月に戦局が最悪の事態を迎えるに至り、各期練習生が総員一斉

に各航空基地、実戦部隊に派遣する命令が下り、予科練教程が整理統合されて、

水中、水上特攻要員の募集が行われる一方、「神竜部隊」(グライダー)に配

属になったり、各航空基地に派遣を命ぜられ、隊退していった。

 

 昭和20年4月に甲飛16期生が入隊してきた頃は前者の甲飛15期生は

「地上演習機」のテストで操縦専従者と偵察専従者に分ける編成替えが行われ

ていたが、在隊者の全員は搭乗員になる「夢」を断たれて、各派遣地の部隊に

配属となり隊退していった。

15期・清水


 昭和二十年三月一日、海軍では本土決戦に備えるため航空部隊の編制改正を実施した。 特筆すべきは、搭乗員の養成を中止して、練習航空隊を実施部隊に改編したことである。 そして、今まで教務飛行に使っていた練習機を「特攻機」に改造し、教育訓練を担当して いた教官や教員を中心に「特攻隊」を編成し、「体当たり攻撃」を命じたことである。  同じ練習航空隊でも、戦闘機や艦攻それに艦爆など実用機を使用して訓練を行っていた 航空隊では、機体は少々古くても本来その目的で造られた飛行機だから、そのまま実戦に も対応することができる。だが、赤トンボと呼ばれた中間練習機や偵察員を養成する機上 作業練習機まで狩り出すとは狂気の沙汰である。  この改編で、偵察員の養成を担当していた鈴鹿空・大井空・徳島空それに高知空では、 機上作業練習機「白菊」による「特攻隊」を編成した。いわゆる「白菊特攻隊」である。 「白菊」に二百五十瓩爆弾二発を搭載するように改造して編成した「白菊特攻隊」は、 夜間攻撃を主眼として猛訓練を開始した。それは、爆弾二発を搭載すれば最高速力が九〇 ノットしか出せない「白菊」では、昼間の出撃は不可能と判断されたからである。  そして、猛訓練により夜間出撃が可能となった五月二十日、聯合艦隊の命令により実戦 配備についた。関東方面に備える第三航空艦隊には「若菊隊」(鈴鹿空)と「八洲隊」(大井 空)が配属され、「特攻待機」の状態で更に訓練を続けることになった。また、九州及び 沖縄方面に対処する、第五航空艦隊に配属された、「徳島白菊隊」(徳島空)は串良基地へ 進出、同じく「菊水白菊隊」(高知空)は鹿屋基地へ進出して、ともに出撃準備を完了した。  そして、五月二十四日の「菊水七号作戦」を皮切りに、六月二十五日の「菊水十号作戦」 に至るまでの間、百十八機の「白菊」が「体当たり攻撃」を敢行し、 二百三十余名の尊い 命が失われたのである。高知空で編成した「菊水白菊隊」には、 同期生増田幸雄君(宮崎 ・十七歳)と春木茂君(愛知・十九歳)が所属し、帰らざる攻撃に飛び立ったのである。



機上作業練習機「白菊」


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2003年3月21日