松山海軍航空隊  

        愛媛県の松山海軍航空隊へ第13期甲種飛行予科練習生として入隊した。訓練は厳しい
        ものだった。偵察員としての初歩的知識を習得するために松山空から宇和島空へ転隊した。
            
《目次》
(1) 分隊と班編成    (2) 官給品の支給    (3) カラスとは    (4) バッチョク(罰直)
(5) 課業(日課) 
軍歌演習 


(1) 分隊と班編成(新兵分隊と操偵別分隊)
 それまで同県人毎の集団で行動していたが、30日に分隊と班編成された、1個分隊は200名位で組織され分隊長には大尉若しくは中尉であった。そして補佐役として分隊士(少尉又は准士官)が数人配置されていた。更に分隊を分け班編成された。新兵分隊の時は1個分隊に12班くらいあったような気がするが定かでない。一学年教程は12月末頃までであってその後編成替えがあった。当時の写真を見ると16名の練習生に砲術科の善行章ニ本の一等兵曹(江草さん)が班長で28分隊。ここまでが新兵分隊で1カ月後くらい経て適性検査により操縦偵察別に分けられたが、私は偵察専修の21分隊8班となり7班と行動を共にした。
 班長は7・8班兼務の井池ニ等兵曹(通信科)で練習生は26名が写真に写っている。
 松山海軍航空隊は昭和18年10月1日開隊の新設航空隊であった。だから伝統を作るには練習生を厳しく鍛えなければと教官教員は必死であったと思う。
 松山航空隊に隣接して松山基地があったが水冷の彗星艦爆の快い爆音、零戦の勇姿に心を奪われたものであった。そのようなことがあとから来る猛訓練の励みになった。


(2) 官給品の支給
 
官給品の支給は分隊毎に集合して、軍帽、七ツ釦の第一種軍装(冬服)、第二種軍装(夏服)、普段着ともいえる真っ白な事業服・一種二種略帽、外套、雨合羽、煙火服(作業衣)、夏冬の襦袢(ジュバン)、靴下、脚絆、半靴などであるが、身体に合わない者がいて苦情をいうと「海軍では身体に合わせて作ってはいない。身体に服を合わせろ」と怒鳴られる始末、仕方がないが練習生はまだ顔を合わせたばかりお互いに融通する事も出来ず困った。衣類だけでなく、日用品とそれを入れておく手箱も支給された。
 支給されたものにはそれぞれ分隊と班名と名前を書き込み整理し衣嚢に収納した。そしてそれまで着て来た学生服その他の私物は荷作りして家へ送った。私の兵籍番号は横志飛14712だった。
(3) カラスとは、昇進
 
13期甲種飛行予科練習生を命ズ、「海軍ニ等飛行兵を命ズ」ということであったが、階級章(肘章)がないので第一種軍装のときには、濃紺の軍服姿から「カラス」と蔑称されたのだ。これは11月1日に一等飛行兵に昇進するまでの一カ月の間であった。
 19年1月1日 海軍上等飛行兵を命ズ─4月1日海軍飛行兵長を命ズ─20年5月1日任海軍二等飛行兵曹で終戦となり俗にポツダム海軍一等飛行兵曹となった。
(4) バッチョク(罰直)
 
入隊して3日も経っただろうか始めて総員整列があった。そして教員から「只今から航空軍楽隊員及び航空憲兵隊員を募集する」という命令があった。それぞれ何人かの人が手を上げ出ていった。冷静に考えればそのような制度はない筈だから私は出なかった。それは全くの作り事で練習生の意志を試したものであつたのだ。
 その後のバッチョクは凄まじいものであったことは言うまでもないことである。
 バッチョクにはいろいろあったが、連帯と個人的に受けた。
 「バッター」、「前支え」、「アゴ」、「飯ぬき」、「ウグイスの谷渡り」、「自転車競争」、「蝉」などいろいろとあったが、今思うとよくもまあー、誰が考え出したものかと感心している。海軍用語の解説は別掲するが、先に海上自衛隊の艦船内で毛布に放火した(H14・4月?)隊員があったと報じられたがどうしてなのか?と考えている。新聞報道では「イジメ」という言葉を使っていたが我々が受けたのは、「シゴキ」であって攻撃精神の涵養と、連帯感の養成のためと割り切って堪えて来たのだ。
 「イジメ」と「シゴキ」は変わらないぞ、強がり言うなといわれるかも知れませんがネ。
 今にして思えば雛搭乗員の私達だからチョツトしたヘマが命を落とすということに繋がったから厳しくしたのだと思う。
                                                                                                                            


(5) 課業(日課)
 
★起床★洗面★朝礼★掃除★食事★座学と陸戦・体育★巡検★外出
 一日の日課は次のようになっていた。冬季の日課(夏季は0500)。
 0600 総員起こし・  0620朝礼、体操始め・ 0640体操やめ・掃除始め。0700掃除やめ、食卓番手を洗え・0715食事・0800「温習始め(日曜日)・0830温習やめ(日曜日)・0915外出(日曜日)」。0830課業整列。  0840課業がはじまる。課業は、午前に3時限午後に3時限の学習(座学という)をやって1640夕食がすめば2時間の温習(自習のこと)・甲板掃除。  2100寝具おろせ・巡検。  2150消灯となる。  起床から就寝まですべてはラッパで知らされた。


起床
 総員おこしといい先ず高声伝達器(スピーカー)から≪総員おこし5分前≫という予告があり、時刻になると起床ラッパが音高く鳴り渡り≪総員おこし!≫という号令で練習生は一斉に飛び起きる。松山空では吊床(ハンモック)ではなかつたが、寝台の毛布のたたみ方が悪いとその班全員がバッチョクを受けるから慎重且つ迅速にやらなくてはならない。
 海軍はなにをするにも5分前そして何処へ行くにも駆け足で行動しなければならなかった。


洗面
 軍艦の上では、真水を大切にする。だから陸上の航空隊でも同じである。一滴の水も無駄にしない。コップ一杯の水で歯磨きと洗面をしろといわれた。洗面歯磨きが終われば数分後には分隊毎に整列して練兵場に向かって駆け足で集まる。

朝礼
 練兵場に集まって朝礼前に号令練習というのがある。思い思いにでっかい声を張り上げて「気お付けー」「前へ進めー」・「全体止まれー」など発声練習をやる。そして体操をやって朝礼となる。朝礼は始め、軍艦旗の掲揚と皇居遥拝やって司令(航空隊で一番偉い人)の訓示がある。 さあー今日も負けずにがんばろうと思ったものだ。 


 掃除と食事
 練兵場で朝礼が終われば兵舎に戻って掃除と進んでいく。一方食事準備は食卓番が行う。
4名づつ一日交替でやった。毎日の朝礼には参加はせずに午前と午後の課業は少し早く切り上げて烹水所(炊事場)へ行き食缶(かん)に入った食事を受け取って、班員と班長の分を配膳するのである。これが一見簡単なようなのだがそうではないのである。
                                                

 掃除
 掃除の仕方は、掃き掃除が終わって、オスタップの水でソーフを絞り、横一列に並んで≪押せー≫の号令でデッキを拭くわけだ。そして30b位先の突き当りまで行き着けば≪回れー≫の号令で向きを変え元の位置に返って終わるが、ソーフの水分がなくなるから初めの水の湿し方が大変だった事思い出す。     
 座学と陸戦・体育など
 座学は、普通学科や体育などいろいろあった数学は、対数や三角などであったがサイン・コサイン・タンジェントは、まだ学校でやっていなかったので水車(垂斜)・停車(底斜)・水底(垂底)などと必死になって記憶したものであった。物理、科学、国語、漢文、地理、歴史は通り一遍なものであったが、気象、天測、電信などは大変であった。とりわけモールス符号を覚えるのに誰もが苦労した。手旗信号・発光信号・旗りゅう信号もそうで何から何まで始めてのことであった。陸戦訓練は飛行兵だから鉄砲を持って陸戦の訓練など必要ないだろうと思うだろうが訓練を受けた。航空隊の敷地は以前吉田浜という所で砂浜であった。散開、匍匐前進、射撃などであるが砂が身体に小銃にも入るので訓練終了後は手入れが大変であった。
 他に松山での思い出に10`bマラソンがある、分隊対抗なので競技会までの何日間やったかは曖昧だが朝食前の空腹時沿道の民家から漂う味噌汁の美味そうな匂いを嗅ぎながらトレーニングに励んだこと。その甲斐あって我が分隊が優勝?した。
 巡検 
 温習が終われば巡検、陸軍では点呼といっていた様だが海軍では巡検という。哀調を帯びたラッパが鳴り先導の下士官が「巡検」と叫び当直士官が回ってくる、練習生はベッドの中で物音立てず立ち去るのを待つ。「巡検終わり、定員分隊タバコ盆出せ、明日の日課予定表とおり」とこれで全て終わりだが、このあと突然総員おこしがかかる事がある。バッチョクだーこれがなければ、故郷のこと、同級生のこと、ガールフレンドのことなど…思い出しながら眠りに就いたものである。
 外出
 辛いことばかりではなかった、クラブといって隊で借りてくれた一般民家に2週間に一回、何がしかのお小遣いと弁当を小脇にかかえて外出があった。郷里から親が出てきて班員全員があやかり一日を楽しく過ごした。
 クラブの一家も我々を歓待してくれた。外出から帰ると軍歌演習というのがあった。練兵場で隊列を組んで大きな声で軍歌を歌って士気を鼓舞した。
                             


       松山海軍航空隊宇和島分遣隊
 個々の適性によって操縦要員と偵察要員に分けられた。入隊後1か月位経ってから適性検査が行われた。飛行兵なら飛行機を操縦するものと思っていたから皆操縦員になりたかった。だが私は偵察であった。偵察専修となって2学年教程に進むと航法・無線通信・無線機の操作・機銃射撃・爆撃・写真撮影など専門的座学が始まった。航法について説明しよう。
 海軍機は海上を飛ぶことが多いから、陸上の地形を確認しながら飛ぶのと違い見えるのは波ばかり。そのため常に機の現在位置を把握しておく必要があり飛行方向、飛行速度、風向、風速を測り(偏流測定という)速やかに計算してチャートに書き込んでいくのである。航法計算盤というのがあってこれも座学で叩き込まれた。また、六分儀を使用して天体観測(天測といった)し自己の位置を測定する訓練もやった。これらは地上での訓練であったが、次の飛行練習生課程において機上でやることになるのだがこれがどんなに大変な事かは知る由もなかった。現在では自動車でも通信衛星からの電波を捉えるナビゲーターがあるから、あの時代こんなシステムがあったならどんなに良かったかなど考えている。
 宇和島空へ転隊する前に休暇があった。松山空の退隊は19年3月25日で宇和島空へ4月1日午後6時までに入隊せよとなっていた。
 松山から今治へそこから連絡船で尾道へ渡り、尾道から列車で帰郷した。5ヶ月ぶりの我が家であったが何とせせこましいかと思った。
 休暇の期間は1週間で、学校へ顔を出したことは勿論だが私の勧誘で何人かの同級生、後輩が志願したことを戦後に聞いたが複雑な思いであった。
 宇和島分遣隊は紡績工場を海軍が接収したらしく内部をベニヤ板で居住区、通路を作ったものであった。
 在隊期間は一ヶ月半位の短い期間だった、課業は座学と体育が主で記憶に残っているのは騎馬戦と棒倒し、フットボール、(サッカー、だったかラグビーかは思い出せない。)など。
 分遣隊長は松山空の副長であった糸永冬生中佐、分隊士に小田原少尉(私の出身地と同じ苗字ではっきりと記憶している)という(体専出「1期予備生徒」)が配属となった。教員は松空から付いて来た。
 飛練課程へ進む
 
予科練を卒業すると偵察術飛行練習生課程へ進むのであるが病気その他の事由で卒業延期となり次期回しになった者もいたが私は無事卒業し飛練へ入隊。当時飛練航空隊は内地に鈴鹿,大井,徳島,高知,外地に青島,上海とあったが我々は徳島,高知,上海,青島へ進むことになったが私は高知海軍航空隊に入隊した。
 さい 
 
                     

2003年3月21日