松山予科練第13期(松山では初回)

甲13期は、昭和18年夏に採用試験を受け、10月(前期)と12月後期)に分かれ入隊した。前12期より採用年令を引き下げた影響
で、受験者の年令には大幅な差が生じた。(最年少者は昭和3年生ま
れ)松山空5,474名のうち前期入隊3,275名は年少者が主で、後期は
2,099名である。
年少者を先に入隊させ年齢差のハンディを補う軍上層部の親心だった
らしいが、現場では海軍の伝統が優先し教育・訓練が進められ前期入
隊者の犠牲が多い結果を生じた。
前表の戦死者を航空隊別に見れば松山空が最も多く、これを更に前後
期別に区別すると285柱のうち、前期272柱、後期13柱と大差
がある。

松山空予科練教程を終え飛練38期操縦専修生として、比島の飛練配属に
なった31空は1998日、柳河丸に便乗しスラバヤに向け航行中、
敵潜水艦の襲撃を受け66名の犠牲者をだした。
ついで1015日ミンドロ沖で、32空便乗の辰城丸が撃沈され8名の
犠牲者がでた。
その後に訓練中の殉職と戦後に戦病死が各1名。

31空会から抜粋。

1943(昭和18)年 10月海軍甲種飛行予科練習生(第13期)として松山
海軍航空隊に入隊(海軍二等飛行兵)。
1943(昭和18)年 12月 同上 適性検査の結果、操縦分隊に配属
(海軍一等飛行兵)。

1944(昭和19)年 5月 海軍甲種飛行予科練習生の課程修了
(海軍飛行兵長)
1944(昭和19)年 6月 松山海軍航空隊を退隊し、佐世保より第二図
南丸に便乗、海軍飛行練習生(第38期操縦)となるため、マニラに行く。
マニラからミンダナオ島サランガニーの海軍第三二海軍航空隊に向う
が、戦局の状況悪化し、ダバオよりマニラに戻り、三二空はマニラ郊
外の三一空と合併し、飛行機操縦訓練開始。

1944(昭和19)年9月・10月 マニラよりジャワ島に向け同期生360名
が4隻の輸送船で移動。途中2隻の僚船が潜水艦の攻撃により撃沈され
76名の同期生を失う。
1944(昭和19)年 11月 ジャワ島ジョクジャカルタ飛行場において、
終戦まで九三式中間練習機(複葉二座)で操縦訓練に従事。
1945(昭和20)年 5月 海軍二等飛行兵曹。
1945(昭和20)年 8月 終戦、海軍一等飛行兵曹。

ジャワ島の日本軍の終結地でインドネシア独立戦争の推移を見守り、
連合軍(英蘭軍)の管轄下に入ってから、バンドン市で貨物トラック・
飛行機輸送の貨物の荷役、ジャカルタ港で船舶・岸壁の荷役、軍艦の
塗装、自動車修理、電話交換、ガソリン関係の仕事などに従事。

1946(昭和21)年4月 復員船で広島の宇品港に帰着して31空解隊。
(三一空の主計長林田悠紀夫大尉は戦後、参議院議員になり、後に京都
府知事になった)

甲飛13期の各セクトのなかで最大の戦没者をだした31空会の絆は
固く殉国之碑保存顕彰活動も最も熱心であり、特に遺族係りとしての
献身的な努力は特筆に値する。




2003年3月21日
奮戦する松山空