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 第一次の身体検査と学科試験は、昭和十八年一月六・七日の両日全国一斉に実施された。 試験科目は、国語漢文・数学・英語・地理歴史・物理化学の五科目であった。福岡県では 福岡市以外に、小倉市と久留米市でも実施された。私は、小倉市で受験することになり、 前日から八幡市の親戚に泊まり込んで試験場に通った。  次に、第一次試験の合格者が佐世保海軍航空隊に集められた。海仁会の佐世保集会所に 集合した合格者を、一名ずつ呼び上げながら班が編成された。私の班は田川郡、京都郡、 宗像郡出身の者十五名で第三十班が編成された。 そして、善行章一線の神野兵長が班長と して付き添った。福岡市内から受験した者など大半の者は、航空隊の中に宿泊していたが、 兵舎が足りなかったのか、私たちの班は海仁会の集会所に宿泊して、朝夕ランチで試験場 に通っていた。

 第二次試験は、精密身体検査と各種器具を使っての航空適性検査である。まず身長・体 重・胸囲の測定など型通りに始まり、各種機材を使った適性検査が一週間にわたつて実施 された。各自番号札を首から吊りさげ、各班ごとに係の指示に従って検査場を順番に回る のである。そして、各自が所持している検査表にその結果が記入されていく。  身体検査の初日、血圧の測定で基準以上の数値がでたため赤印がつけられた。過度の緊 張によるものだろう。再検査するので他の検査が終わってから再度来るようにとの指示が あった。  昼飯が終わり、廊下で休憩していると、 「永末! 永末はおらんか?」と、白い事業服に黒線一本の帽子を冐った下士官が呼んで いる。「ハイ!」と言って立ち上がった。すると近寄って来て、 「上野の青木だ……」と、話しかけてきた。  隣接の上野村に長兄の親友がいて、海軍に志願して飛行兵になっていると聞いていたが、 佐世保航空隊にいるとは知らなかったので驚いた。早速血圧検査の件を話すと、 「今朝用便はしたのか?」と聞くので、今朝起こされると同時に船に乗せられてこちらに 連れてこられ、朝飯が終わると直ぐに検査が始まったので、顔を洗う暇もなかったと話し た。すると、海軍では「総員起こし」の前に一度起きて個人の用などは済ませておかない と駄目だ、と言って笑っている。  そして、私を血圧検査のあった部屋に連れて行った。午後の検査の準備をしている兵隊 に、私の検査表を見せて何か話していたが、引き返してきて「合格だ!」と、小さな声で 言って検査表を返してくれた。見ると血圧検査の欄には再測定の数値が記載されていた。 なーるほど軍隊は要領を本分とすべしだ。  その後も暇をみては面会に来て、海軍生活の予備知識を話して聞かせ、 「絶対操縦員になれ!」と激励された。彼は今、佐世保航空隊で二座水偵操縦員の配置に 就いているとのことであった。航空隊前面の海上では飛行艇や水上偵察機が離着水を繰り 返していた。検査の合間に飽かず眺めていた。飛行艇が離水後、瀧のような海水の尾を引 いて上昇するのは特に勇壮な眺めであった。

 第二次試験の最終日、波止場近くで帰りのランチを待っていると、二隻の戦艦が駆逐艦 を伴って入港してきた。「金剛と榛名だ……」見送りに来ていた、青木兵曹が小声で教え てくれた。初めて見る戦艦の威風堂々たる勇姿に感激を覚えた。

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 三月中旬に合格が発表された。私の学校からは数名の者が受験していたが、福島安政君 と私が合格した。だが、私の合格通知書には予定と違って「八月一日、鹿児海軍島航空隊 に入隊すべし」と書かれていた。同級生の福島安政君は当初の予定どおり四月一日に鹿児 島航空隊に入隊した


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2003年3月22日