吉林からコロ島までゴットン車で


コロ島まではゴットン車ででた。
ゴットン車なので雨が降ればびしゃ濡れ。

食事は日に一食。
高粱のお汁のようなお粥。金(かね)の皿で二人に一つ、じゃから夫婦で一つ。

汽車が止まるのは一日一回。

止ったとこは(駅でなく)何処ゆうもんじゃない。

野宿。

一度だけ、焼けて屋根も半分ないような家か工場へ寝ることがあった。その時は病人や、子供や、年寄りがその中で寝た。

野宿じゃから毛布を頭から被って寝んと顔に露がつく。
とにかく私らはづっと野宿をしとった。

若かったけぇなあ。何日かかかってコロ島へでた。


終戦時、満州・関東州(大連・旅順など)には民間人が155万人がいたことになる。
その、荒野で地獄の苦しみをなめた老幼婦女たちの引揚げの第一陣の船が、コロ島を故国へ向かって出航したのは、1946年5月15日のことである。
一番あとの中国本土の日本軍隊の帰国よりも遅かった。
在満の日本人の死者は18万694人とされ、その大半が45年と46年に亡くなったという。

「ソ連が満州へ侵攻した夏」



2002・4・30