資料・シベリアへの捕虜 「ソ連軍が満州に侵攻した夏」より


8月24日スターリンは極東軍総司令部ワシレフスキーにたいして極秘のまったくあたらしい命令を発した。

「捕虜移送に関する実施要綱」である。

a・旧日本軍から労働可能な捕虜を最低50万人選抜しておくこと。
b・各1000名単位で作業大隊を編成しておくこと。


前線司令部では50万人確保のため、いきおい片っ端から拘束し”人狩り”をびしびし実行した。

こうして毎日毎日あらゆるところから60万人近い大部隊がシベリアに送られていった。


貨車に乗ったが最後、何処へ連れて行かれるか?
待っているのが重労働と飢えと寒さの苦難の長い歳月であるとは、ほとんど誰もが予想さえしなかった。


ソ連軍の占領下におかれた満州・北朝鮮・千島・樺太からと日本本土は通信が杜絶してしまっていた。
このため外務省がこれを知ったのはなんと昭和21年3月末のことという。それもAP通信社が「日本兵捕虜はシベリアへ送致。目的は不明」と、報じたことからなのである。


さらに同年5月モスクワより佐藤駐ソ大使が帰国して、その報告で「シベリア鉄道沿線で、多数の日本兵捕虜が労働に従事している。」ことを知らせ、間違いないと確信した。


つまり戦後半年以上もの間、シベリアの60万人は全員幽霊同然であったことになる。


2002年6月16日