浅口郡大島村・大島尋常高等小学校の話
浅口郡大島村・大島尋常高等小学校の話 (そのⅠ)
おじ(母の兄)の話
2005.9.14
農家の長男(いわゆる跡継ぎ息子)
小学校の先生になったが、うちから通えるし、百姓もちょびっとできる。
親もおじいさんも、みんなそれがよかろう言うことじゃった。
それで中学校出て師範学校へ行った。
師範学校の時の担任の先生は音楽の先生じゃった。
これがさっぱりできずにおおじょうしょうた。
少なくともオルガンで「君が代」を弾かにゃあならん言われ、
代用教員になるんじゃないので、なんとかしょうと右手で引きだした。
難儀をした。
2年間通うて、(赴任先は)女の先生は隣村、男の先生は隣の郡へ、離れたところで勉強すりゃあよかろう。
北の人は南へ、南の人は北へ、西の人は東へ、東の人は西へ言わりょうた。
それで作州への人が多かった。
ワシは新見の方かのう思ようたら、3月28日ごろ、「浅口郡大島尋常高等小学校」へ配属が決まった。びっくりした。
隣の隣の郡じゃった。
大島村には小学校が三つあるが高等科があるのは真ん中にある大島小学校だけじゃた。
今中学校があるとこ、
あそこは尋常もあり、高等もあり、青年学校もある。
そのころ先生が足らんゆうて、代用教員をえっと入りょうた。
3月27.28日に大島へ行くのが決まり、ようよろ(間に合うように)発った。
(※発った先は大島小でなく軍隊だった)
![]()
学校の先生は徴兵制も特別扱いで、普通は甲種合格の人だけがいっとったが
「学校の先生も兵隊のメシを食うとらにゃおえん」ゆうことで、先生になる人は甲種だけでなく、乙種の人までも兵隊に行った。歩兵第10連隊へいった。
本籍は大島小学校のままで8月31日まで、歩兵10連隊におった。伍長になって止めた。
9月1日から正式に大島小学校に行った。
![]()
陸軍10連隊に入営
談・2005.9.14
衛生兵になった。
外の傷はヨーチンを塗る、中はクレオソートガンとか言うのを・・・よう効く・・飲む。
時々身体検査がありょうた。
「おい身体検査じゃ」言うたら真っ裸になりょうた。
右手に軍服をもって立ちょうた。
12~13段ある階段を飛んで降りる、恐ろしいかった。
危なかった。
夜と昼の反対訓練をする。一週間つづける。
「セミをやったれい」言われたら柱に登って、「じんじんじんじん」「じゃんじゃんじゃじゃん」、ほんになあ。
いっぺん訓練中に野ツボに落ちた。(汚れを)はね釣瓶で落とした。
大きな練兵場があって、(いづみ町)這う訓練をしょうた。
赤柴大佐が連隊長になり、支那に行き
留守部隊をしょうた。
![]()
大島尋常高等小学校の話・その2
談・2005.9.14
(兵役が終わり昭和12年9月1日に赴任)
中等教育の資格をもっている先生が3人いた。普通は小等教育だけ。
校長も持ち、国語の男の先生は笠商を出とるだけじゃったが中等資格を持っとった。
(高等師範学校出でなく)文部省の検定試験を通ってもっとる。
偉い人がおるな思ようた。
若い先生はなんでもせにゃあいけん言われとったが、通勤はしんどかった。
それで下宿したん。
ここから小田へ出て、
小田から新山・吉田を通って今立でて、国鉄を渡り天井川に沿って、笠岡工業に行かんまに左に曲がり大島村に入った。土曜日の晩に帰り、日曜日の晩に戻りょうた。
朝いちばんに戻るとえらいけぇ。
下宿屋にはおばさん一人じゃ。朝晩メシを食わしてもらようた。
月給が46円じゃった。女(の新人先生)は36円。そのうち27円(下宿屋に)払ようた。
柴木から山越えてくる、
分教場からは山を越えて来きょうた。
分教場は4年生ごろまでいて、そこには先生が一人おっただけで1年生から4年生までみな教ようた。
運動会やこどんどんやる好きな先生がいて、どうも自分に合いそうもない気がしてきた。
上の学校にいけばもっと楽な教員。
家が農家なんで、農業の先生になろう思うた。
親に言うと、「また勉強するんか」言われ、11月ごろ農業の先生になる学校の試験があった。
農業大学でなく、東大に付属した学校が駒場にあった。農業教員養成所を作っていた。
受けたらとうた(合格した)。
そしたら「官報」に合格者の名前が載った。こりゃあえらいことじゃ思うた。
おじいさんが、そのころ500円ほど金を貯めとった。
「お前、この貯金をはぁまた使うんか」言われた。
2016年06月09日 | 暮らし