笠岡高等女学校へのあこがれ

おばの話(父の妹・大正12年8月16日生)

談・2015.7.21




※おばは城見小→城見小高等科→増川女学校→にいみ裁縫という学歴である。


笠岡の女学校に行きたかったが、いかしてもらえなんだ。


利三郎じいさんが「娘が笠岡の女学校へ行ってもろくなことはねえ」
(自分の長女の事を鑑み)と反対した。

笠岡の女学校よりも、(茂平の名家の)M家でさえ増川に行っとる。増川でええ。
そのM家の5つ年上の人が袴をはいて、上の道をとおり、西の谷を越えて大門駅までいきょうた。(服装が)かっこよかった。

仲の良い子がそろって女学校にいかなんだ。女学校に行かずに高等科に行った。
小学校の時から一番成績の良いしのぶさんは、高等から師範学校に行った。

(高小の卒業時)笠岡女学校へ進学はできるが、(同年齢者より)2年遅れるので面白うない。

次兄が福山工業にいとった。次に弟の進学も控えていた。
それで家計のことも考えて、行きたかった笠岡女学校を諦めることにした。




憧れの笠岡女学校(祖母の姉のこと)

(祖母は4人姉妹の次女であったが、嫁にいかず養子を取った。その訳は長女が家を出て行った。
長女は祖母と違い、美人で頭がよかったようだ。
長女は明治21年10月茂平に生まれた)


利三郎じいさんは貧乏で「百姓の家じゃから女学校にいかんでもええ」言うとった。
そしたら吉浜の子なしの親戚から「うちの子になってくれるなら女学校にいかせちゃる」言う話があり、
即、「養子に行く」と本人が言った。

養家から笠岡の女学校に通うた。

ところが女学校を卒業したら東京へ逃げてしもうた。
顔が美人じゃった。
そこで恋愛して東大の先生をしょうる一家と結婚した。


(父が)東京陸軍第一病院で手術をするとき、2~3ケ月東京にいっとった。
その時、従姉ののりちゃんの家に行った。
東京の婚家は大家(たいけ)で門が三つあった。
小作人小屋もある。


東京では、のりちゃんに連れられ、生まれて初めて喫茶店ゆうところに入った。
生まれて初めてコーヒーを飲んだ。
生まれて初めてアイスクリームを食べた。


隣に陸軍の学校があり、ひろい運動場で練習をしょうた。
兄が好きなものを神楽坂で買い物をしょうた。



※祖母の姉は学校創立直後に入学しているが、
笠岡高校100周年名簿に名前がない。
中退したのだろうか?
それとも資料が不完全なのだろうか?










2016年06月13日 | 暮らし