 幼い日、僕の手を引いた母は祖母(母の母)を見送りに大門駅まで行った。
祖母が茂平をたずねた帰り道、茂平から大門へは山道だった。
山道で祖母は娘である母に言った。ひと言。「元気でやるんでぇ。」
そこから後の事は覚えていない。3人で大門駅まで行ったのか?その山道で別れたのか?
寂しい声での激励であった事が記憶に強い。子供心に理由は分かっていたから。
昭和33年頃、母は盲腸のため金浦にあった市民病院で手術をした。退院後、すぐには畑に出られない母への祖父母の視線は厳しかった。
両親は夕方まで畑仕事をしていた。母が朝食、祖母が夕食をしていた。祖母は畑・田圃に出ることはなかった。祖母が作る夕食は祖父への大盛り、父への盛り、僕たち孫への。そして母へのものは誰がどうみても極小の皿であった。
そうした母は、時代がいくらか過ぎた昭和40年代。「ひろこに会いに行く事だけが楽しみじゃ。」いいながら嫁いだ長女ひろこをよく訪れていた。
小学生だった僕に「女学校の同級生は結核になって、キレイな人から死んでいった。」というような話を母はしていた。それは病死した同級生、戦争未亡人になった同級生の多くに比べれば・・・と、母が自分で納得する為の言葉でもあった。その事は当時でも子供心に感じていた。 |
寝物語に朝早くから聞ぃとった。
(祖父母が)嫁(母)の悪口を二人で言うのを。
「洗濯はきちっと干さん。」とか、ぶつぶつ言うのを聞ぃて大きくなった。
目がさめたら毎朝そんなことを言っていた。
ひろちゃんは下に弟二人がいたため、祖父母といっしょに寝ていた。
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